【福島原発事故11年】「小さな安心のために大きな安全を犠牲に」未知のリスクと向き合えない日本 第二次民間事故調・鈴木一人座長に聞く


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【福島原発事故11年】「小さな安心のために大きな安全を犠牲に」未知のリスクと向き合えない日本 
第二次民間事故調・鈴木一人座長に聞く

2022年3月11日

理事長 船橋洋一2011年3月11日に発生した東日本大震災とそれによる大津波は、東京電力福島第一原子力発電所(福島第一原発)事故を引き起こし、10年以上が経過した今なお、日本社会にさまざまな形で影を落としている。

この未曾有の大事故を受け、シンクタンク「日本再建イニシアティブ(RJIF)」は民間の立場から独自に福島原発事故独立検証委員会(民間事故調)を設置し、2012年に調査・検証報告書を刊行。「アジア・パシフィック・イニシアティブ(API)」に改組して以降も、事故から10年後のフクシマを総括すべく、福島原発事故10年検証委員会(第二次民間事故調)を立ち上げ、「民間事故調最終報告書」を昨年刊行した。

第二次民間事故調で座長を務めた国際政治学者の鈴木一人・東京大学公共政策大学院教授は、検証の総括として「小さな安心のために大きな安全を犠牲にすべきではない」と問題提起する。未知のリスクに向き合えない日本が抱える根本的な課題は何か。鈴木教授に聞いた。(聞き手:ジャーナリスト・飯田和樹/THE PAGE編集部)

 

「やった感」のみで根本原因にアプローチしない日本

――報告書をまとめるうえで、座長として意識したことはありますか?

「検証」を「検証する」という部分を意識してやりました。

日本では「政策というものは作った時点でほぼ完ぺきなはず」という前提がある。いわゆる官僚の無謬(むびゅう)性です。それでも明らかに福島の原発事故には何らかの失敗があったはずです。だから「どこに間違いがあったのか」を検証する作業が事故後に行われたのですが、「誰それのせいだ、何々が理由だ」といった結論が出て終わってしまう。
しかし必要なのは、このような検証を改めて検証することだと我々は考えました。ただ、おそらく日本ではかつて一度も「検証を検証する作業」をしたことがない。ノウハウはどこにもなく、難しかったです。

――従来の検証というと「悪者探し」をして、その部分だけを改善しようというものが多かった印象です。「検証の検証」をやってみて感じたことはありますか?

日本という国は、福島原発事故のような、これだけの事故があっても変わらない。改めてそう感じました。「悪者探し」の裏返しだと思うのですが、「どこが悪い」というと、その悪い所だけ直せばいいとなる。それで「やった感」を見せる。「やったからいいでしょ」という逃げを打つ。

今回の検証でも、いろんな人にインタビューをしました。その中には現役の方もいる。彼らは、少なくとも福島の事故が悲惨な事故であって、それが結果として誰かのせいでそうなっているということは自覚している。でも、「じゃあどうすればいいのか」となった時に、問題点として指摘されたところだけに注目し、「なぜそうなったのか」という根っこの所にアプローチしていかない。

――例えば病気の人を治療するのに、症状が出た部分だけを抑えるイメージでしょうか? 根本原因の生活習慣の改善には手を付けず、というような。

そうですね。もちろん、福島の事故は非常に衝撃的な事故だったので、多くの人の心にいろんな形で突き刺さった。考え方を変えたり、行動を変えたりする人たちもいた。しかし、政府のレベル、東京電力のレベルになると、その変化が非常に出にくい。

(原発事故後の安全規制強化で)見た目には厳しい規制になって、見た目には皆ちゃんと遵守している。あたかも「これで大丈夫」という演出はなされる。でも本当に大丈夫なのか、というところを検証したのが「検証の検証」の価値なのかなと思います。

 

未知なリスクは「ないことにする」悪癖を繰り返す

――「事故があっても日本は変わらない」という話をされましたが、この国自体が抱えている根本的な課題のようなものはあるのでしょうか?

日本社会というのは、地震や災害などいろんなリスクを背負っていると思いますが、そのリスクを「全部分かっていないとイヤだ」という社会だと思うんです。だからリスクはノウン(既知)なものにしたい。リスクをすべて分かったものとして「これだけやっていれば大丈夫」という安心を優先する。

報告書の最後のところで「小さな安心のために大きな安全を犠牲にするな」と書きました。ノウンなリスクにすることで安心する、言い方を変えると、アンノウン(未知)なリスクはないことにする。しかしそうなると、アンノウンなリスクが来てしまった時にみんなパニックというか、どうしようもなくなる。これが結局、福島の事故だったわけですが、「それを繰り返している」と強く感じています。

――「安心・安全」という言葉はセットで使われることが多いですが、完全な安全を強調したり、安心を強く求め過ぎたりすると、本当の安全からどんどん遠ざかってしまう印象です。

そうですね。どちらかというと、「安全から遠ざかる」というより、「安心にしがみつく」といったほうが適当でしょうか。安心にしがみつくがゆえに、安全のことはなかったことにしよう、と対処するというところが問題です。では、「安心する」ことから離れるにはどうしたらいいのか。私はそこに「人間としての強さ」みたいなものが必要になってくると思っています。

例えば今、ウクライナ危機のさなか、現地のいろんな人のインタビューを聞いていると、自分ではコントロールできないリスクがあることを認めつつ、それでもいざという時に何をしたらいいのか、ということを考えている。それが必ずしもうまくいくわけではないでしょうが、「自分はやるべきことをやった」という受け止め方ができる。そこに日本人との違いがあるように思うのです。

日本の場合、「そんなことあったら怖いじゃない」「そんなことは絶対あってはならない」などと言って、先回りして不安に対する手当てをする。私も日本人なので、日本人の不安に対する敏感性みたいな感覚は分からないでもない。でも、不安があるからすべて対処しなきゃ、と言っていたら、対処しなければいけないことが無限に出てきます。人間が把握できるリスクは限られていて、想定外は必ずある。このことを理解しないまま、「ただただ不安への対応だけを追求するのは危機管理としてどうなのか」ということを問題提起したのが、この報告書なのかなと思います。

 

「ゼロリスク志向」反映する政治 科学に判断丸投げ

――そもそもリスクとは何か、がうまく理解できていない。だからリスクとうまく付き合うこともできていない、と感じます。

「ゼロリスク志向」なんてよく言われますけど、「リスクはゼロでなければならない」という、ある種の教条主義的な発想があり、それが正義になっている感じがします。例えば国会審議。野党の議員たちが与党を「でもそんなことがあったら大変なことになっちゃうじゃないですか」みたいに攻撃しますよね。

つまり何か不都合なことが起こること、それは「悪」であって、不都合なことが起こらないことが「正義」である。リスクに対応できていないのは「悪いこと」であり、「能力がないこと」である。責任ある立場の人間であればちゃんとリスクに対処できて「当たり前」で、できてなかったら「落第」。そういう評価の仕方になっているのだろうな、という印象をしばしば受けます。

――原発事故もそうですが、リスクについて考える時、専門家の役割が重要になってくると思います。政治と科学の関係の問題点についてはどのように考えますか?

一つは、政治と科学の関係でリスクについて考えると、政治は「ゼロリスク志向」のような空気感を反映しちゃうわけですね。国民の不安とかを直接引き受ける立場にある。一方、専門家は、より具体的な科学的な見地からリスクを見るわけです。どっちが勝つかは、状況によって異なる。

ただ、政治がしなければいけない判断なのに、それを全部科学者に丸投げしてしまっている部分がやっぱりある。政治は科学に対して素人ですから、その素人が政治家として判断するというよりも、素人だから科学者に任せて科学者が判断したことをそのままエンドースする(※承認する、推奨する)というのでしょうか。そのうえで「自分たちは悪くない」という演出をしたがる傾向はある。典型的には、福島原発事故の時の菅直人首相と班目(春樹)原子力安全委員長の関係に現れているのかな、と。

 

中長期的なリスクには「本当に起きるの?」と損得勘定が出る

――コロナ対策の問題とも共通する部分があるような気がします。

興味深いと思うことがあって、前首相の菅義偉さんは、意外に新型コロナ対策で「自分がこうすべきだ」と思うことを実行した人だと思うんです。でも不人気なんですね。菅さんを必ずしもいい政治家だと言うつもりはないのですが、コロナに関しては、政治と科学の関係でむしろ政治を前面に出した。そういう政治家が日本ではあまり人気がない。

――やっている政策をどのように国民に伝えるか、という部分が不十分だったのかもしれません。

それは間違いなくあると思います。でも逆に言うと、国民は伝え方を評価して政治家を選んでいるのであって、政策の中身では選んでいないということですよね。国民は安心感が欲しい。つまり、菅さんのしゃべり方は安心感をもたらさないんですね。ここが、やっぱり「安心と安全」の問題につながってくる。日本のリスクに対する考え方は、安心と安全のバランスが悪いというか、安心を優先させ過ぎて、結果として安全が危険にさらされている印象を受けます。

――中長期的なリスクへの対応の鈍さみたいなことにもつながっていますか?

目先の不安を解消してくれると、国民には人気が出やすい。「皆さんが心配しているこのリスクにこう対処しました」っていうような安心感ですね。しかし、「中長期的にはこんなリスクがあるかもしれません」というようなことは、ボヤっとしてみんなよく分からない。だから「本当にそれを今やって何かいいことあるの?」「本当にそんなことが起きるの?」という反応になる。安心感を生まない。そうなると、「起きるかどうかわからないことのためにこんなお金使ってどうするの?」というふうに、目先の損得勘定が出てきてしまう。

それが本当の意味で、「小さな安心と大きな安全」の問題なのかなと思うところもあります。つまり、大きな安全の話をすると、とたんに目先のコストの問題になってしまう。

中・長期的なリスクは「こうなるかもしれない」という話なので、確たるエビデンスがあるわけがない。「起きるかどうか分からないんだから、大金をかけて対処する必要はない」。このような発想が、アンノウンなリスクに対する備えを一層難しくさせている気がします。

 

安心するために「安全」というフィクションにしがみついた

――こうしたリスクに対する向き合い方、「安全・安心」に対する考え方は日本特有なのでしょうか?

特有な部分はあると思います。特に欧米諸国、ヨーロッパでは「個人としては安心を求めつつ、集団としては安全を追求することが個人の安心につながる」という発想が強い印象があります。

――「小さな安心のために大きな安全を犠牲にした」結果、福島の原発事故は発生しました。

小さな安全のために大きなリスクをずっと後ろ倒しにしていく。リスクがどんどん積み上がっていって、あまりにも大きくなり過ぎると、何とか解決しなければいけないと“在庫一掃セール”みたいな対応をして問題を解決しにいく。日本ではさまざまな場面で、そういう一発逆転の手法を取らざるを得ないことが多い。でも、一発逆転の手法を取る間もなく起こってしまったのが、福島原発事故だと思うのです。安心をするために、安全であるというフィクションにしがみついた。それが結果として、いろんなリスクをどんどん大きくしていったのだと思います。

 

報告書

 2021年2月19日に『福島原発事故10年検証委員会 民間事故調最終報告書』を株式会社ディスカヴァー・トゥエンティワンから刊行しました。

プロジェクト詳細

序章 第二次民間事故調の課題:「いつものパターン」は許さない

第1章 安全規制─不確かさへのアプローチ─

コラム1 消防車による原子炉注水

第2章 東京電力の政治学

コラム2 なぜ、米政府は4号機燃料プールに水はないと誤認したのか

第3章 放射線災害のリスク・コミュニケーション

コラム3 “過剰避難”は過剰だったのか

第4章 官邸の危機管理

コラム4 福島第二・女川・東海第二原発

コラム5 原子力安全・保安院とは何だったのか

第5章 原子力緊急事態に対応するロジスティクス体制

コラム6 日本版「FEMA」の是非

コラム7 求められるエネルギー政策の国民的議論

第6章 ファーストリスポンダーと米軍の支援リスポンダー

コラム8 2つの「最悪のシナリオ」

コラム9 「Fukushima50」─逆輸入された英雄たち

第7章 原災復興フロンティア

コラム10 行き場のない“汚染水”

コラム11 免震重要棟

終章 「この国の形」をつくる

発売日:2021年2月19日
出版社:ディスカヴァー・トゥエンティワン
ISBN:978-4-7993-2719-7

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