イスラエル・ハマス戦争とアメリカの中東戦略(地経学ブリーフィング・松田拓也)


地経学ブリーフィング No.184 2023年12月20日

イスラエル・ハマス戦争とアメリカの中東戦略

東京大学先端科学技術研究センター 特任研究員 松田拓也

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10月7日のハマスによるイスラエルへの越境攻撃は、2001年のアメリカ同時多発テロとしばしば比較される。この前代未聞のテロ攻撃は、イスラエル・パレスチナ紛争の今後の展開を含め、中東の地政学を大きく変えるものとなろう。さらに、今般の事件を発端とする現在進行中のイスラエルとハマスの大規模衝突は、日本のような地政学的最前線に位置するアメリカの同盟国を含め、世界に広く影響を及ぼす可能性がある。

アメリカはオバマ政権以来、「大国間競争」への対処を戦略上の優先事項に位置づけ、それまで軸足を置いていた中東から距離を置き、中国やロシアに対処する姿勢を強めてきた。アメリカが仲介していたイスラエルとサウジアラビアの国交正常化交渉は、アメリカの地道な努力の集大成でもあった。しかし、アメリカの戦略的方向性を「大国間競争」の対処へと根本的に転換させるという長期的な目標が今、新たな問題に直面しているという指摘もある。

バイデン政権は今般の戦火が中東全体に拡大すれば、アメリカは再び中東に引き戻される可能性もあり、結果として広く世界に影響を及ぼす可能性を十分に認識しているようだ。仮にアメリカの「大国間競争」重視路線が完全に頓挫せずとも混乱した場合、中国、そしてとりわけロシアにとっては漁夫の利を得る結果となる可能性は十分ある。現に2つの空母打撃群を東地中海に派遣するなどアメリカの防衛資源の中東への再配分が行われており、これが一時的かつ限定的な措置だとしても、「大国間競争」への対処を優先事項とする2022年のアメリカ国防戦略に明記されている長期戦略からは半ば逸脱していることを示す。イスラエル・ハマス戦争は、アメリカの「大国間競争」への集中を企図した長期戦略にどのような影響を与えるのだろうか。

 

アメリカの中東撤退戦略は夢物語だったのか

ジェイク・サリバン国家安全保障問題担当大統領補佐官は、今回のテロ事件のわずか1週間前に、中東は「この20年間で最も平穏だ」と述べた。中東への関与を縮小し、特にインド太平洋地域における「大国間競争」に防衛資源を再配分するというアメリカの戦略は、結実しつつあるようだった。しかし、戦略的な優先事項の転換は一朝一夕にして実現したわけではない。

「大国間競争」に注力するというアメリカの意図を初めて戦略文書で明確にした重要な転機は2018年のアメリカ国防戦略と言えるだろう。しかし、2009年のアフガニスタンへの増派とともに最終的にアフガニスタンから撤退する道筋を示すことで中東への関与を縮小させ、国内経済の強化とアジアへのリバランス政策を含めた、アジア太平洋における長期的な大国間関係の両立を主眼に据えた、持続可能な外交戦略を追求する試みは実はオバマ政権期に始まっていた。

言い換えれば、アメリカはオバマ政権以来10年を超える年月をかけて、戦略的優先事項をテロとの戦いから「大国間競争」へとシフトさせるために必要な政策転換を行なってきたのだ。中国の西太平洋での強硬姿勢や2014年のロシアによるクリミア半島併合などを受け、中露への対処の必要性は2010年代前半にオバマ政権期から意識され始めた。しかし、2001年以来、対テロ戦争を基軸に動いてきた米軍の戦い方、及びそれに関連するアメリカの官僚機構の見直しや国防予算における優先事項の転換は容易なものではなかった。2010年代を通じてアメリカは漸進的に戦略思考の転換を進め、2018年の国防戦略を契機に、グローバルな戦力態勢もまた中国やロシアなどとの「大国間競争」を意識したものへと変化したのである。とはいえ、アフガニスタンからの撤退にオバマ政権期からさらに10年を要したことからも想像できるように、中東への関与を抜本的に低減させるのは容易ではなかった。そして、2021年夏のアフガニスタンからの撤退は、2001年以来アメリカの安全保障政策に支配的影響を有していた、「中東におけるテロとの戦い」の時代の終わりをようやく告げる象徴となった。

これらを考慮するとアメリカの戦略志向、すなわち中国などとの「大国間競争」への対応へとシフトさせるという10年越しの試みが短期間で容易に覆ることはないだろう。しかし、イスラエルとハマスの大規模衝突の展開によっては、アメリカの長期的な戦略に少なからぬ影響を与え得る。イスラエルは当初ハマスの殲滅を目標に掲げたが、一部の専門家は明確な政治的目的がない中での軍事力の行使が、イスラエル自身の戦略的、政治的、倫理的立場を不用意に害する可能性があると懸念した。今回のテロ攻撃の規模を考えれば、イスラエル側からの何らかの報復行動は不可避だろう。とはいえ、今般の戦争がアメリカの長期戦略へ与える影響を最小限に留めたいという思惑もあり、バイデン政権は戦火のいたずらな拡大を防ぐためイスラエルに積極的に働きかけてきた

 

イスラエル・ハマス戦争へのアメリカの対応

中東でのこの新たな危機に対するアメリカの対応は、主に戦火の拡大を抑制し、戦争の範囲を限定することに重点を置いてきた。イスラエルの軍事作戦の期間と烈度は、意図せぬ戦火の拡大及び戦争全体の趨勢を決定する上で重要な役割を果たす。

中東においてイスラエル、イラン、アメリカは既に「影の戦争」とも呼ばれる動きを見せてきた。イランとアメリカ、イスラエルは、直接的な軍事衝突へ発展しないように巧みに緊張拡大を抑制する慎重な措置をとりつつも、背後では軍事的な小競り合いが散発的に起きていた。直接的な戦争を避けるため、自らの秘密裏の軍事行動のみならず、相手側の関与も、言わば忖度する形で否定することで、「影」での軍事的小競り合いは戦争にまで発展してこなかった。今回のテロ事件発生直後にも、アメリカとイランは共にハマスの攻撃におけるイランの直接的な役割を積極的に否定し、意識的に緊張の制御が行われてきた。

実際のところ、イランやヒズボラが今般の戦争に参戦することを望んでいないとみて妥当だろう。2006年のイスラエル・ヒズボラ戦争以来のイスラエルとの全面戦争を開始することは、レバノンの経済状況を考えればヒズボラにとって大きな政治的コストを課すことになる。また、トランプ政権がイランのイスラム革命防衛隊(IRGC)精鋭部隊のコッズ部隊のカセム・ソレイマニ司令官を殺害した後、イランの対応は極めて慎重で抑制されたものだった。イランの中東戦略の立役者と言われたソレイマニ司令官の殺害は一触即発の緊張をもたらしたが、イランの計算された報復攻撃はイランがアメリカとの直接的な全面戦争を望んでない事実をむしろ印象付けた。

しかし、イスラエルの今般の軍事行動はこうした関係各国の水面下での努力を損なう可能性がある。何よりもまずハマスに対するイスラエルの軍事作戦に明確な達成可能な政治的目標が不在なことが、戦争長期化のリスクを高めている。復讐心は半ば戦争において付き物ではあるものの、それが先行し政治的目的を明確にしないまま軍事力を行使することは、戦争の泥沼化をはじめ自らを意図せぬ形で窮地に追いやるだけでなく、倫理的にも重大な問題を引き起こす。

さらに、ガザは人口密集地であり、地上侵攻は激しい市街戦を伴う。市街戦は非常に厳しい状況下で戦われ、長期にわたる危険な作戦になる可能性が高く、必然的に大きな民間人の犠牲を伴うことで既に深刻なガザにおける人道的危機に一層拍車をかける。この状況は中東全体への戦火の拡大のきっかけとなり得る誤算のリスクを高め、また中東諸国の世論を刺激することで、アラブ諸国との国交正常化の流れなどイスラエルが過去数年の間に築いた外交的資産を損なう可能性がある。要するに、ガザでの市街戦の長期化は、様々な形で意図せぬ戦争の拡大を招く可能性があるのだ。

そのためバイデン政権は、イスラエルの軍事作戦において実現可能な政治的目標を設定し、慎重な軍事力の行使に基づく戦略を形成する上で相談役のような役割を担ってきた。アメリカは2001年の同時多発テロの経験から、このような役割を果たす上で説得的な立場にあり、これは一定程度功を奏しているようにも見受けられていた。しかし、時間の経過とともにアメリカとイスラエルの間で見解の乖離もまた、目立つようになってきた。

 

「大国間競争」の時代におけるアメリカの大戦略はどこへ向かうのか

イスラエル・ハマス戦争へのアメリカの対応は、基本的に「大国間競争」を重視する長期戦略からの逸脱を防ぐことを企図したものだが、改めて「計画」としての大戦略とその「履行」の間の溝を埋めることの難しさを浮き彫りにした。今まさにバイデン政権は、中東での思わぬ危機の発生と膠着状態にあるウクライナ戦争という2つの戦争を抱え、国内経済も意識しながら「大国間競争」に集中するという過去10年間の戦略路線をどう調整するのかという難問に直面している。

バイデン大統領は10月20日の「歴史の転換点」演説の中で、ウクライナへの軍事支援継続に懐疑的な米議会を意識して、ウクライナ、イスラエル双方への支援の重要性を訴えた。ただ、全ての危機に対して十分なリソースを割いて対応するという「理想」は、政治的要因も大きいのだが、有限の財源という「現実」の壁に直面する。各地域での国際政治上の危機の連動性を意識する必要はあるものの、それら全てにおいて完璧の結果を求めることもまた現実的ではない。クラウセヴィッツが「戦争論」でいうところの「勝利の限界点」を見極める必要がある。ウクライナの反転攻勢の手詰まりと、中東での危機が米議会におけるウクライナへの支援疲れを加速させている状況の中で、ウクライナの敗北を避けるためにも、停戦協議を含めた現実的な政治的交渉を経て最適解を模索することが求められる。中東においても同様だ。

実際のところ「大国間競争」は国際政治の現状の描写に過ぎず、それ自体が戦略ではない。大戦略では、個別の危機と中心的な外交命題の双方において、常に「目的」と「手段」を精査しながら、限られたリソースの中で優先事項を明確にし取捨選択する能力が試される。「大国間競争」の時代においては、中国などへの長期的な抑止力の強靭化とオバマ政権以来一貫して強調される米国内経済への注力を両立させていく必要がある。イスラエル・ハマス戦争への対応は、アメリカにとって、「大国間競争」の時代において長期的な大戦略をいかに適切に運用していくのか、大きな試練だと言えるかもしれない。一方、日本にとっても、今般のイスラエル・ハマス戦争は、アメリカの長期戦略の一時的動揺が西太平洋で新たな危機を生まないよう、日米同盟の強化を含めて主体的に防衛力の強化や整備を進めていくことが肝要であることを改めて再認識する重要な契機とも言えるだろう。

 

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地経学ブリーフィングとは

「地経学ブリーフィング」とは、コロナウイルス後の国際政治と世界経済の新たな潮流の兆しをいち早く見つけ、その地政学的かつ地経学的重要性を考察し、日本の国益と戦略にとっての意味合いを精査することを目指し、アジア・パシフィック・イニシアティブ(API)のシニアフェロー・研究員を中心とする執筆陣が、週次で発信するブリーフィング・ノートです(編集長:鈴木一人 地経学研究所長、東京大学公共政策大学院教授)。

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