ウクライナが求める「平和の公式」という停戦条件(東野篤子・地経学ブリーフィング)


「地経学ブリーフィング」とは、コロナウイルス後の国際政治と世界経済の新たな潮流の兆しをいち早く見つけ、その地政学的かつ地経学的重要性を考察し、日本の国益と戦略にとっての意味合いを精査することを目指し、アジア・パシフィック・イニシアティブ(API)のシニアフェロー・研究員を中心とする執筆陣が、週次で発信するブリーフィング・ノートです(編集長:鈴木一人 地経学研究所長、東京大学公共政策大学院教授)。

本稿は、東洋経済オンラインにも掲載されています。

https://toyokeizai.net/articles/-/684901

「地経学ブリーフィング」No.163

(出典:Reuters / Aflo)

2023年7月10日

ウクライナが求める「平和の公式」という停戦条件 - 開戦から1年半、和平交渉のために必要なこと

筑波大学人文社会ビジネス科学学術院・国際公共政策専攻 教授 東野篤子

 
 
 
 
 

【連載第3回:ウクライナ反転攻勢の行方】

ロシアによるウクライナ侵略は、開始から1年半を迎えようとしているが、現時点で停戦して和平交渉に入る意志は、ウクライナとロシアの双方に存在していないのが現実である。

仮にロシア軍がウクライナ国内に残る状況で停戦交渉を行えば、ロシア軍が態勢を整えて再侵攻を準備する恐れもある。このため、一人でも多くのロシア兵を国境外まで押し出した状況でなければ、停戦交渉は意味を持たないというのが、ウクライナ側の支配的な認識となっている。

一方のロシア側は、2022年10月に東部・南部4州とクリミアがロシアに「併合」されたという「領土上の新たな現実」をウクライナが認めることが、ロシアがウクライナとの交渉に応じる大前提であるという立場を崩していない。これらの地域の放棄を前提とした交渉をウクライナが受け入れる誘因は極めて小さい。
 

「平和の公式」とはなにか

ゼレンスキー大統領は昨年11月15日、20カ国・地域(G20)首脳会議の際、同国にとっての戦争終結・平和の保証のための10条件「平和の公式(ピース・フォーミュラ)」を公表している(表参照)。ウクライナが現在全力を挙げているのが、この「平和の公式」を世界各国に説明し、支持を取り付ける外交活動である。

ウクライナによる戦争終結・平和の保証の10条件
「平和の公式」(2022年11月15日)

1  放射能・核の安全
2  食糧安全保障
3  エネルギー安全保障
4  すべての被拘束者と追放された人々の解放
5  国連憲章の履行とウクライナの領土一体性と世界の秩序の回復
6  ロシア軍の撤退と戦闘の停止
7  正義の回復
8  環境破壊行為(エコサイド)対策
9  エスカレーションの防止
10  戦争終結の確認

この「平和の公式」を、ウクライナがロシアに対して非妥協的に掲げる「『勝利』の条件」と解釈して警戒的に捉える向きもあるが、ウクライナはむしろこれを、ロシアの再侵攻の恐れのない安定的な平和を維持するための「最低限の条件」と位置づけていることに留意する必要がある。

またゼレンスキー大統領をはじめとしたウクライナ政府関係者は、この「平和の公式」への賛同を呼びかける際、各国がこれに「参加するよう招待する」という表現を用いることが多い。これによって各国が、10項目中の任意の分野で「平和の公式」の実現に手を貸してくれるよう依頼するという含意を持たせている。

「平和の公式」に掲げられた10項目はいずれも、ロシアによる侵略によってウクライナがこれまでに被った被害や、今後直面しうる脅威に基づいている。

たとえば第1項目の「放射能・核の安全」は、侵略開始後間もない2022年3月にロシアによって占拠され、この侵略を通じて幾度となく攻撃や事故の恐れが指摘されてきたザポリージャ原発を念頭に置いている。第2項目の「食糧安全保障」は、ロシアによる黒海封鎖によってウクライナ産の穀物の輸出が困難となった経験に基づく。

第8項目の「環境破壊行為(エコサイド)対策」は、ロシア占領下にあるヘルソン州のカホウカ・ダムがロシアによる攻撃対象となる恐れがあったことを背景に盛り込まれている。同ダムが今年6月に決壊し、周辺地域に甚大な被害が及んだことは記憶に新しい。

ウクライナがこの「平和の公式」で最も重視し、諸外国に対して理解を求めているのが、第6項目にある「ロシア軍の撤退」である。すでに述べたように、ロシア軍がウクライナ国内に残っている状態では、終戦はおろか停戦交渉にすら応じられないというのがウクライナの立場である。
 

最重要条件は「ロシア軍の撤退」

しかし、同項目をめぐっては、現時点で少なくとも2つの不確定要素が存在する。

第1に「ロシア軍の撤退」という状況が実現するためには、ウクライナが戦場で相当の成功を収める必要がある。現在進行中の反転攻勢においてウクライナ軍の苦戦が報じられる中、この条件の達成は極めてハードルが高いと言わざるを得ない。

第2に「ロシア軍の撤退」が2022年2月24日の侵略開始時のラインまでの撤退を指すのか、それとも1991年の独立達成時のラインの達成を意味するのかも、現時点では不明確である。なにをもって「撤退」とするのかは、現実的には今後の領土奪還状況に大きく左右されざるを得ない。

第5項目にある「ウクライナの領土一体性」も、同様の問題をはらんでいる。たしかに現段階では、ウクライナも、またウクライナの重要な支援国であるG7およびEU諸国も、1991年の独立時の領土を取り戻すことが「ウクライナの領土一体性」を回復することとみなしている。

しかし、仮にクリミアおよびドネツク・ルハンシク両人民共和国の完全奪還の実現をもって「領土一体性の回復」とするのであれば、その実現可能性のハードルは極めて高くなる。「ロシア軍の撤退」や「ウクライナの領土一体性」の具体的な到達点については、ウクライナ当局者の発言にもズレが見られる。

6月30日にワシントンポスト紙が伝えたところによると、ゼレンスキー大統領はバーンズ・アメリカCIA長官に対し、反転攻勢を進めてクリミアの境界線付近に重火器を移動し、クリミアの将来的な地位を交渉対象とすることを示唆したという。この報道が事実なら、クリミアの奪還が実現されずとも、停戦交渉を開始することはありうるとウクライナが見なしていることになる。

しかし、この報道が出た翌日の7月1日、ゼレンスキー大統領は「クリミアの奪還は停戦交渉入りの条件である」と述べている。こうした食い違いは、「平和の公式」で打ち出した「ロシア軍の撤退」や「ウクライナの領土一体性」等の条件の厳密な解釈をめぐり、ウクライナ内部でも見解の相違が存在することを示唆している。そして繰り返しとなるが、この現実的な着地点は、反転攻勢の成否に左右されざるを得ない。
 

課題はG7やEU諸国以外の理解と支持

今年5月に開催されたG7広島サミットで採択された「ウクライナに関するG7首脳声明」で、G7が「平和の公式」を支持することが確認された。このことが示すとおり、「平和の公式」の大枠は、G7やEU諸国等からはすでに一定の理解と支持を得ている。しかし、それ以外の諸国においては「平和の公式」が十分に知られていないのが現実である。

このためウクライナは、この「平和の公式」への理解を、G7やEU諸国を超えて広めていくための取り組みを極めて重視している。G7広島サミットに対面参加したゼレンスキー大統領の重要な成果の一つは、「招待国」として参加していたインドのモディ首相に対して「平和の公式」を説明し、理解を求める機会が得られたことだったとされる。

ウクライナ政府はこのゼレンスキー・モディ会談での感触を元に、インドの支持をより得やすくするために「平和の公式」の微調整作業を検討しているとの報道もある。

とはいえ全般的には、「平和の公式」周知のための外交において、ウクライナは苦戦を強いられている。今年に入り、ウクライナとロシアの和平を訴えるさまざまな諸国が「提案」を行っているが、そもそもウクライナは他国からの新たな提案を求めているのではなく、「平和の公式」を議論の出発点とすることを求めている。

しかし、中国による「ウクライナ危機の政治的解決に関する中国の立場」文書(通称「12項目文書」)(2月)、インドネシアのプラボウォ国防大臣がシンガポールで開催された安全保障会議「シャングリラ対話」における演説で語った和平案(6月)、そしてアフリカ政府代表団がロシアとウクライナに提示した10項目提案(同)のいずれも、「平和の公式」を踏まえていない。さらに、ウクライナが最重要視する「ロシア軍の撤退」を提案に含めた国はなかった。

ウクライナ側はこれら諸国からの提案に「ロシア軍の撤退」が含まれていないことに対して、遺憾の念を示してきた。しかし、中国やアフリカ諸国が「ロシア軍の撤退」を提案に盛り込む動きも、ロシアに対して軍の撤退を強く呼びかける動きも見られない。
 

中国にもアフリカにも和平仲介の強い意志はない

そもそも中国にしろ、アフリカ諸国にしろ、現時点で両者の仲介を行うための強い意志を持っているわけではなく、上記の諸提案も各国の戦争に対する立場を示したものに過ぎない。このためこれらの国々からすれば、ロシアが受け入れそうにない提案を行うことに積極的な意味を見いだせないのが正直なところであろう。

ロシアに比較的近いとされるこれらの国々が、ロシアに対して軍の撤退を強く要求しない以上、ウクライナとしてはこれら諸国に和平仲介を真剣に託せる状況にはない。反転攻勢と同様、「平和の公式」をめぐるウクライナ外交も苦しい闘いが続く可能性は否定できない。
 

(おことわり)地経学ブリーフィングに記された内容や意見は、著者の個人的見解であり、公益財団法人国際文化会館及び地経学研究所(IOG)等、著者の所属する組織の公式見解を必ずしも示すものではないことをご留意ください。
 

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