日中の「国交」を50周年で捉えると本質を見誤る訳(岡本隆司)


「API地経学ブリーフィング」とは、コロナウイルス後の国際政治と世界経済の新たな潮流の兆しをいち早く見つけ、その地政学的かつ地経学的重要性を考察し、日本の国益と戦略にとっての意味合いを精査することを目指し、アジア・パシフィック・イニシアティブ(API)のシニアフェロー・研究員を中心とする執筆陣が、週次で発信するブリーフィング・ノートです(編集長:細谷雄一 研究主幹、慶應義塾大学法学部教授、ケンブリッジ大学ダウニング・カレッジ訪問研究員)。

本稿は、東洋経済オンラインにも掲載されています。

https://toyokeizai.net/articles/-/588669

特集 日中国交正常化50周年「中国を知る。日中を考える」(2022年2月~)API地経学ブリーフィングでは、2022年の日中国交正常化50周年を記念して、「中国を知る。日中を考える」シリーズの連載を開始しました。論考一覧はこちらをご覧ください。

「API地経学ブリーフィング」No.104

(画像提供:読売新聞/アフロ)

2022年5月16日

日中の「国交」を50周年で捉えると本質を見誤る訳 - 正常化とは何を意味するか、日中関係の歴史的視座

京都府立大学文学部教授
岡本隆司

 

 

 

 

「国交正常化」とは何か

今年は「日中」の「国交」が「正常化」して「50周年」、本稿もその余波で生まれた。さりながら脱稿した今も、このテーマにはなお釈然としていない。

「50周年」とは、現在の中華人民共和国と「国交」を結んだ1972年から数えた数字であり、「正常(化)」とは日中共同声明にいうそれ以前の「不正常な状態」と対比した概念である。そう厳密に限定するなら、ひとまず差し支えない。

しかし1949年の中華人民共和国建国から四半世紀ほどの日中関係を、正常でない、異常だったと解するなら、強い違和感を覚える。世上の理解はどうも当時から、そちらに傾いているように見えてならない。

「国交正常化」がいつ、どのようにできた術語なのか、寡聞にして知らない。当時にはそれなりの理由と経緯はあったのだろう。しかし少なくとも現在からみれば、ミスリーディングな字面であるとは断言できる。

長い歴史でみてみると、「国交」に限らない「日中」の関係なら、遣隋使・遣唐使から数えても1500年ほど続いてきた。そのうち正常な国交と称してよい事態は、史実としていかほどあったのか。

国交と呼ぶ以上、国際関係にもとづく、政府間の公式対等な通交にほかならない。たとえば日米関係は、ペリーの「開国」・条約締結からはじめるはずで、それなら日中関係史上、そうだったのは1871年に双方が条約を結んだ日清修好条規からである。おおよそ現代まで、日米は170年足らず、日中のほうが150年間と少ない。1500年からすれば10の1、「正常化」の「50」年なら30分の1と、いずれもごくわずかの期間である。

そしてその「国交」のあった時期、日中の間はどれだけ、うまくいっていただろうか。消長こそあれ、「正常」という言葉が与える印象ほど、円滑でなかったことはまちがいない。

にもかかわらず、長年こうした物言いをしたまま疑ってこなかったところに、現代日本人の中国に対する見方の特徴、いな偏向がある。日中の交わり・関係といえば、多くは「正常」な「国交」しか思いつかないのではなかろうか。

それなら今後めざすべき日中関係の機微・含意は、「50」年はおろか、おそらく1500年の歴史を巨細にみなおさなくては認知できない。迂遠な本稿のあるゆえんである。

 

齟齬は初発から

そもそも日本史は、中国との関係からはじまった。いかに多数の考古学的な遺跡・遺物が存在しようと、それだけで「日本」という集団・国家の成り立ちは説明できない。中国の記録がなくては、姿をとらえることが不可能である。しかもその日本の本格的な成立とは、いわゆる律令体制の構築、すなわち中国の王朝国家のコピーだった。

ところが中国は、遊牧民と農耕民からなるユーラシア大陸の二元構造からその国家社会を作ってきたのに対し、日本はおよそ農耕民の一元社会である。双方はこのように、根本から体制が異なっていたため、中国の制度を日本がコピーしても、およそ板につかない。中国に倣った古代日本の律令国家は、当初より修正を余儀なくされた。まもなく摂関政治・院政・武家政治と、帝制の中国とはまったくかけ離れた政体に転換している。

だから中国は日本の体制を正確にとらえることができなかった。逆も真なり、日本の側も中国を正しく見ることが難しい。これは日中関係初発の段階からそうなのであって、双方の公的関係は、初期・古代から相性がよろしくなかったのである。

以後もその基調は変わらない。13世紀後半のいわゆる「蒙古襲来」はその最たるものだし、その100年後にモンゴル帝国を後継した明朝は、海禁と貿易統制で日本と対立し「倭寇」を引き起こした。そして「蒙古襲来」から300年の後、そのベクトルを逆転させた秀吉の朝鮮出兵で、またもや日中は干戈を交えている。

このようにみると、日中の政府間には史上、正式で平穏かつ恒常的な、つまり正常な通交はほとんどない。公式なルートによらない民間ベースの打算的実利的な往来のほうが、はるかに円滑だった。たとえば12世紀から14世紀、日宋・日元の商業交易や学問交流があったし、16世紀の「倭寇」は、経済関係の深まった日明の民間が提携して、政府の統制に反発した活動である。

 

近世から近現代へ

日中の関係は以上のように、齟齬を免れない歴史をたどった。日本は官民がほぼ同質一体の一元体制だったのに対し、中国は政治と経済をおのおの異質な集団が担う多元的な社会構造で、官民が乖離していたからである。そうした日中の齟齬・矛盾からおこった朝鮮出兵という大戦争を経て、関係安定を模索して行きついたのが、江戸時代の「鎖国」だった。

「鎖国」といえば、日本人・日本史はともすれば当時の「南蛮」「紅毛」、つまり西洋との関係からしかみない習癖がある。しかし当時の西洋諸国は、キリシタン宣教もふくめ、日中の経済関係を仲介しただけの存在にすぎない。その関係から生じがちな軋轢をいかに調整するか、が当時の根本的な重大課題であった。あらゆる方面で政府間の交際をミニマムに制限しつつ、経済関係を損なわないようコントロールする、という「不即不離」の状態保持がその解答であって、それこそ「鎖国」の内実なのである。

その「鎖国」200年のあいだ、列島社会は上下こぞって、中国と西洋を学んだ。漢学と蘭学である。関係が長く、つとにとりくんだ「同文同種」の漢学は、やがてアレルギーを起こし、横文字の蘭学・洋学に目を向けると、むしろこちらのほうがフィットした。けだし日本は、制度・体制の成り立ちや社会の同質性で、中国・ユーラシア世界より西洋に近かったからであろう。

だからこそ19世紀に入っての「開国」、欧米との「国交」樹立も、穏便に受け入れることができた。激動の幕末維新とはいえ、中国のアヘン戦争以後の歴史と比較すれば、はるかに摩擦が少なかったのは、対比すれば一目瞭然である。そればかりか、のち明治の文明開化で、いや応なく西洋から制度・文物をとりいれた際も、往年の律令制とは異なって、円滑な直輸入が実現しえた。

そこに西洋と中国のはざまで先進文明を摂取した日本のありようをみるべきだろう。西洋は大洋を越えた遠隔、中国は「一衣帯水」の近隣にあるから、前者が疎遠でわからないのなら納得できようが実際は正反対、「同文」の隣国こそ不可解であった。そんな距離と理解の非対称に、20世紀日本の悲劇も起因する。

日本は地政学的な利害から、新たに受容した西洋的な「国交」の論理一辺倒で、朝鮮半島・中国大陸に侵入した。列島とはまったく異なる社会・体制を十分にわきまえないまま深入りしたのである。半島を植民地化したばかりか、隣接する東三省に「満洲国」をつくり、華北にまで踏みこんでしまった。

同じ時期、日中の産業革命がすすんでいる。民間経済では政治的な対立と背馳して、生産・消費とも相互に依存を深める趨勢だった。

 

関係を安定に導いた「不即不離」の距離感

日中の関係は史上このように、官民一致しない多元的な展開である。19世紀後半以降の国交をはじめ、公的な通交は軋轢が多かったのに対し、貿易もふくめ、民間の交流が深まったときも決して少なくない。そのため「不即不離」の距離感が、かえって関係を安定に導いた。

そうした歴史があるにもかかわらず、西洋流の「正常」な「国交」を一義的なスタンダードと見がちな現代日本人の中国観には、やはり不安が払拭できない。そもそも「国交正常化」という概念は、中国側に存在しなかった。この和製漢語それ自体、かつて相剋と破局をもたらした非対称の所産なのであり、「正常」の歴史と現実に思いを致す必要があろう。

「50周年」の節目、せっかくの機会である。「日中国交」の史的実像はもとより、われわれ日本人の視座・史観を見直してみてはいかがだろうか。

 

(おことわり)
API地経学ブリーフィングに記された内容や意見は、著者の個人的見解であり、一般財団法人アジア・パシフィック・イニシアティブ(API)やAPI地経学研究所等、著者の所属する組織の公式見解を必ずしも示すものではないことをご留意ください。

 

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