北京五輪の中国「ゼロコロナ政策」終わりの始まり(相良祥之)


「API地経学ブリーフィング」とは、コロナウイルス後の国際政治と世界経済の新たな潮流の兆しをいち早く見つけ、その地政学的かつ地経学的重要性を考察し、日本の国益と戦略にとっての意味合いを精査することを目指し、アジア・パシフィック・イニシアティブ(API)のシニアフェロー・研究員を中心とする執筆陣が、週次で発信するブリーフィング・ノートです(編集長:細谷雄一 研究主幹、慶應義塾大学法学部教授、ケンブリッジ大学ダウニング・カレッジ訪問研究員)。

本稿は、東洋経済オンラインにも掲載されています。

https://toyokeizai.net/articles/-/508996

「API地経学ブリーフィング」No.91

画像提供:Getty Images

2022年2月7日

北京五輪の中国「ゼロコロナ政策」終わりの始まり ― ありのままを直視し、精査する姿勢が大切だ

アジア・パシフィック・イニシアティブ(API)
主任研究員 相良祥之

 

 

 

オミクロン株が世界で、そして中国でも猛威を振るうなか北京冬季五輪が開幕した。移動の自由を厳しく制限してきた中国の「ゼロコロナ政策」は正念場を迎えている。

感染前や無症候でもステルスでひろがる新型コロナ感染症の封じ込めは、きわめて難しい。切り札として期待された中国産ワクチンは有効性でmRNAワクチンに劣り、中国国民の命と健康を守るにはあまりに心許ない。また、頻繁なロックダウンはグローバルサプライチェーンを寸断させるリスクもはらむ。感染力の強いオミクロン株の出現により、ゼロコロナ政策の継続を懸念する声が世界中で上がっている。

厳しい水際対策を続けてきた中国であったが、1月8日には天津で、1月15日には北京でもオミクロン株の市中感染が検出された。こうした状況下で、中国は北京冬季五輪を開催し、世界から選手団や大会関係者、メディアを迎え入れている。中国のコロナ対策を、われわれはどう見たらいいだろうか。

 

はじまりは武漢モデル

中国は世界でもっとも厳しい国境管理とともに、武漢のロックダウンをはじめ国内でも人々の移動の自由を制限してきた。地域で感染者がひとりでも見つかれば、感染者を隔離し、感染発生地域をロックダウンし住民の移動を制限する。さらに大規模なPCR検査を実施し、健康コードなどアプリや顔認証といったデジタル監視技術も駆使し、感染の封じ込めを目指してきた。

こうした「武漢モデル」(人民網日本語版)は新規感染者数を低い水準に保ち、中国各地で展開されてきた。ローカルな自治組織である社区レベルでの住民監視も、感染制御を支えた。

 

中国の「ゼロコロナ政策」

2021年8月、中国国家衛生健康委員会(日本の厚生労働省に相当)が「ダイナミックな感染ゼロ政策」をコロナ対策の基本方針として採用した。この頃から中国当局や国営メディアによる対外発信で「ゼロコロナ政策」(Zero-COVID policy)という言葉が見られるようになった。

実はその直前、7月には中国でデルタ株の感染が急拡大していた。そのため上海の感染症専門家からはウィズコロナへの方向転換を示唆する声も上がっていた。そうした意見は、コロナとの共存を模索する西洋諸国に迎合するものだとして、封殺された。

 

ゼロコロナ政策という言葉が使われた3つの要因

中国がゼロコロナ政策という言葉を使うようになった背景には3つの要因が考えられる。

第1に、武漢モデルが中国のコロナ対策における標準的な方策となり、中国の閉じられた言論空間でその成果が反響し、増幅され、成功物語として語られるようになったこと。価値観の似た者同士で交流し、共感し合うことにより、特定の意見や思想が増幅されて影響力をもつ、いわゆるエコーチェンバー現象である。

第2に、国内向けに習近平体制の統治の正統性を高める宣伝として、わかりやすいキーワードが希求されたこと。

第3に、中国の対外宣伝で重視されてきた、国際的な「話語権」、すなわち言説の影響力を高めるため、である。

アメリカを筆頭に、欧州、日本など近隣のアジア諸国がたびたび新型コロナの「波」に苦しむなか、中国は感染制御に自信を深めてきた。中国はグローバルな言説空間で民主主義国家に覇権を握られてきたという思いが強い。話語権をめぐるグレートゲームで反転攻勢に出るべく、コロナ封じ込めに成功する中国というナラティブを世界中に発信しようとした。それはマスク外交やワクチン外交としてあらわれた。しかし、いくら「ゼロコロナ政策」を続けても、中国各地で散発的に感染が発生してきた。

コロナ対策の切り札になるはずだったのがワクチン接種である。昨年6月から7月にかけ、日本は菅義偉総理(当時)が掲げた1日100万回接種の目標を達成し、最大170万回ほどのペースで急速にワクチン接種を進めた。

同じ時期、中国は1日1000万回から最大2200万回以上という、まさに桁違いのペースで接種を進めた(Our World in Data)。しかし中国が接種したのは、世界で主流のmRNAワクチンに比べ予防効果で劣る中国産の不活化ワクチンであった。1月14日時点で12億人以上、中国国民の9割近くがワクチン接種を完了し、さらに3億人以上がブースター接種も受けたということだが、感染拡大に歯止めがかからない。

 

ゼロコロナ政策の軌道修正

実は、国家衛生健康委員会は「ゼロコロナ政策」の軌道修正をはじめている。昨年12月には、ゼロコロナ対策は感染ゼロ(zero infections, zero tolerance)が狙いではなく、機動的に(dynamic)感染制御策をとることが重要なのだ、と主張し始めた。

こうした中で発生した西安の感染拡大と天津のオミクロン株市中感染、そしてロックダウンをめぐる混乱は、ゼロコロナ政策の終わりの始まりかもしれない。

人口1300万人の西安では昨年12月からデルタ株の感染が拡大し、1カ月で2000人以上の新規感染者が報告された。これは中国では2020年1月の武漢以来となる大規模な感染拡大であった。

12月23日、西安で事実上のロックダウンが始まった。食料の確保も困難になるほど厳しい行動制限が課せられた。ところが1月1日、妊娠8カ月の女性が、検査陰性証明の有効期限がわずか4時間ほど切れていたため診療を拒否され、氷点下のなか病院の外で待たされ死産してしまうという痛ましい事件が起きた。この悲劇に中国のネット上では行き過ぎた行動制限を非難する声が高まった。西安市衛生健康委員会のトップは女性への謝罪に追い込まれ、さらに関係者が処分されるに至ったが、市民の怒りは収まらなかった。

さらに、中国のゼロコロナ政策がグローバルサプライチェーンに影響を及ぼすという言説も世界に広がった。1月8日に中国で初のオミクロン株の市中感染が天津で検出されると、天津市トップの李鴻忠(り・こうちゅう)党委書記は、隣接する北京への感染拡大を防ぐ「堀を築け」と指示。天津にある自動車や半導体の日系企業の工場は、一時的な稼働停止に追い込まれた。

また、西安にはサムスン電子やDRAM製造大手のアメリカのマイクロン・テクノロジーなど半導体産業が集積している。サムスン電子もマイクロンも、西安のロックダウンにより生産や供給に支障が出かねないと発表した。米中の経済安全保障をめぐる戦略的競争において、もっとも熾烈を極めるのが半導体の確保合戦である。中国としては、半導体産業への悪影響は最小限に抑えたい。

1月24日、西安は新規感染者が減少できたとして、ロックダウンを解除した。

 

北京冬季五輪のクローズドループ方式

ゼロコロナ政策の実質的な調整が進みつつある中、北京冬季オリンピック・パラリンピック競技大会(北京大会)が中国でオミクロン株の感染拡大につながらないか、世界が注目している。

中国の国境管理は、世界でもっとも厳しい。まずフライトがない。北京や上海、香港など主要都市への直行便は多くが運航停止となり、海外からの渡航者は大連や広州などから入国する必要がある。入国に際してはワクチン接種完了後14日間を経たあと、搭乗2日前以内のPCR検査と抗体検査のダブル検査で陰性証明を取得し、オンラインで「健康コード」の申請が求められている。さらに21日間の隔離観察を満了し、入国23日目になってようやく北京市への移動が可能になる。

こうした厳しい水際措置を北京五輪の選手や大会関係者に課すことはできない。したがって北京大会のプレーブックでは、ワクチン2回接種、できれば3回接種により、隔離を免除することとした。東京オリンピック・パラリンピック競技大会(東京大会)の「バブル方式」を踏襲して、北京大会では「クローズドループ方式」が実施されている。毎日、検査を実施するのはバブル方式と同様だが、ワクチン接種完了が原則必須であり、移動は北京大会組織委が提供する交通手段に限られ、選手村での行動制限も非常に厳しい。

北京大会は東京大会を下敷きにしたコロナ対策を実施している。それは、東京大会のバブル方式が成果を挙げたからである。東京大会では、選手および大会関係者に対しワクチン接種を奨励するとともに、出発前の検査陰性証明を求め、入国後も定期的にスクリーニング検査を実施した。

開催前は随分と心配されたが、結果的に東京大会の「バブル方式」は有効に機能した。海外からの入国者5万4250人のうち261人(0.48%)を陽性者として検出したものの、検疫や保健所による迅速な隔離により感染拡大を防いだ。選手村や競技会場でクラスターは発生しなかった。大会関係者などから東京など市中に感染が広がった事例も認められなかった(東京2020組織委員会「東京2020大会の振り返りについて」)。

しかし北京冬季五輪は、感染力が強いオミクロン株に苦戦している。まだ北京大会は始まったばかりだが、検疫や日々の検査により、選手や大会関係者から353人(2月4日時点)の陽性者が検出されている。北京大会がオミクロン株の中国への流入につながらないよう、中国当局はなりふり構わずクローズドループ方式の徹底をはかっている。

 

2つのエコーチェンバー

中国のコロナ対策をめぐる現状は、閉じられた言論空間がエコーチェンバーとなり、中国当局もその国民も、武漢モデルへの過剰な自信を制御できていないように見える。中国政府は国際的な「話語権」を高めるべく、対外宣伝において「ゼロコロナ政策」という言葉を使ってきた。

こうした中で開催される北京冬季五輪が重視するのは、中国自身がすでに軌道修正してきたとおり、感染ゼロではなく、機動的な感染制御であろう。つまり、ゼロコロナを看板に掲げた中国は、すでに実態としてはウィズコロナに移行しつつある。しかし欧米や日本のメディアや政策当局者の間では、いまだにゼロコロナ政策を文字通りにとらえ、その「失敗」の見通しや負の側面を強調する論調が多い。われわれの中国への見方も、閉じられたエコーチェンバーで増幅されたものとなっていないか。

今秋の党大会に向け、習近平体制は厳格なコロナ対策を続けていくだろう。しかしその手法や、宣伝文句については修正しながら進めていくと見込まれる。中国の対外宣伝に惑わされないためにも、また、中国の現状を冷静に分析するためにも、ありのままの中国のコロナ対策を直視し、精査する姿勢が大切である。

 

(おことわり)
API地経学ブリーフィングに記された内容や意見は、著者の個人的見解であり、一般財団法人アジア・パシフィック・イニシアティブ(API)やAPI地経学研究所等、著者の所属する組織の公式見解を必ずしも示すものではないことをご留意ください。

 

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