日本と中国の間に不可欠な「普遍的価値」めぐる対話(及川淳子)


「API地経学ブリーフィング」とは、コロナウイルス後の国際政治と世界経済の新たな潮流の兆しをいち早く見つけ、その地政学的かつ地経学的重要性を考察し、日本の国益と戦略にとっての意味合いを精査することを目指し、アジア・パシフィック・イニシアティブ(API)のシニアフェロー・研究員を中心とする執筆陣が、週次で発信するブリーフィング・ノートです(編集長:細谷雄一 研究主幹、慶應義塾大学法学部教授、ケンブリッジ大学ダウニング・カレッジ訪問研究員)。

本稿は、東洋経済オンラインにも掲載されています。

https://toyokeizai.net/articles/-/536053

特集 日中国交正常化50周年「中国を知る。日中を考える」(2022年2月~)
API地経学ブリーフィングでは、2022年の日中国交正常化50周年を記念して、「中国を知る。日中を考える」シリーズの連載を開始しました。論考一覧はこちらをご覧ください。

「API地経学ブリーフィング」No.95

日中首脳会談、2008年5月7日(画像提供:Reuters/アフロ)

2022年3月7日

日本と中国の間に不可欠な「普遍的価値」めぐる対話 - 共通の利益を模索するための戦略的選択が必要だ

中央大学文学部准教授
及川淳子

 

 

 

 

「価値観」をめぐる対立

ロシアによるウクライナ侵攻は、世界的課題を明示した。地政学的リスクが高まる中で、人類共通の「普遍的価値」である「平和」を再構築できるのか、人権の擁護や法の支配などの実効性ある取り組みが可能か、国際社会はあらためて問われている。

かつて日本と中国は戦争状態を終結させ、政治社会体制やイデオロギーの相違を越えて国交を回復した。日中関係は紆余曲折を経て、国交正常化50周年をむかえた現在もなお関係改善の道半ばにあるが、重要な二国間関係であるだけでなく、アジア太平洋地域および世界の平和と安定に対しても大きな影響力を有していることは共通認識である。現在、国際秩序の再構築が進む中で、日本と中国は利害の対立を回避し、共通の利益を模索して合意形成を図る戦略的選択アプローチによって、両国関係をさらに発展させる必要がある。

国際社会は政治社会体制の優位性を競い合う構造へと変化し、体制間競争の背景にある「価値観」をめぐる対立が顕著になっている。新型コロナウイルス感染症への対応はその代表的な例だ。民主主義と権威主義の体制下において、生命および健康を守るという「価値観」は共通するが、個人の権利や社会の安定に対する認識や解釈などの相違点も浮き彫りになった。

中国共産党が指導する権威主義体制は、世界最先端のデジタルテクノロジーを駆使した中国式ガバナンスモデルを確立して国際社会に大きなインパクトをもたらしており、中国をめぐる議論においても「価値観」の対立が重要なイシューとなっている。

日中間において、平和、自由、平等、民主主義、人権、法治などの「普遍的価値」に関する対話を深化させることは可能だろうか。筆者は、日中両国がこれまでに戦略的選択によって合意形成を果たした歴史的成果を再評価し、日中共通の利益を「普遍的価値」の文脈で再検討したい。習近平政権が言論や思想の統制を強化する中で、「普遍的価値」をめぐる議論が困難であることは論を俟(ま)たないが、権威主義に対する批判と同時に、中国社会の多様性と複雑性に対する理解という複眼的な視点が必要だと考える。

 

戦略的選択を重ねた日中の50年

日本と中国は、政治的な緊張関係、経済的な互恵関係、歴史的・文化的な相互影響の関係など、複雑かつ重層的な関係にある。地政学的に見れば、両国およびその周辺地域において安全保障上の課題が山積している。そうした中で、日中は共通の利益を模索し、戦略的選択を重ねてきたといえよう。その歩みは、両国政府が発表した「4つの基本文書」に具現されている。

1972年の「日中共同声明」では、社会制度の相違にかかわらず平和友好関係を樹立すべきだと記された。1978年に締結された「日中平和友好条約」では、平和的手段による紛争解決と反覇権が確認された。冷戦下で実現した国交正常化の背景には、当時のソ連に対抗した米中接近という国際情勢があった。日本では対中外交の転換を求めた世論の高まりもあり、文化大革命のさなかにあった中国との関係改善は、日中双方の利害が一致したところが大きい。平和友好と反覇権は、日中間で共通する重要な利益として戦略的に選択されたのである。

1998年の「日中共同宣言」は、「平和と発展のための友好協力パートナーシップの構築に関する日中共同宣言」が正式名称である。冷戦後の国際情勢をふまえて、アジア太平洋地域および世界の平和と発展に対する協力が確認された。筆者が重視するのは、2008年の「『戦略的互恵関係』の包括的推進に関する日中共同声明」である。「政治的相互信頼の増進」に関して、「国際社会が共に認める基本的かつ普遍的価値の一層の理解と追求のために緊密に協力する」と明記されている。当時、中国は胡錦濤・温家宝体制で、日中首脳交流も活発化した。日中間の政治文書で「普遍的価値」が明記されたことは画期的であった。

その後、2010年の尖閣諸島沖における中国漁船衝突事件を経て日中関係は悪化した。両国の国内事情と国際情勢も変化し、現在は「戦略的互恵関係」の形骸化を指摘せざるをえない。しかしながら、両国政府が共通の利益を模索して一定の合意形成という戦略的選択に至った基本文書は日中の歴史的遺産である。国交正常化50年という節目に際し、「4つの基本文書」に明記された日中関係の諸原則、とりわけ「戦略的互恵関係」の意義を再評価したい。

 

中国の「価値観」

日本の世論調査で対中感情が悪化している背景には、日中間における各種利害の対立に加えて、習近平政権が掲げる「価値観」に対する違和感や拒否感があるのではないか。日中は漢字文化を共有するが、例えば「人権」の表記は同じでも、中国における「人権」は「生存権」や「発展権」が優先され、その意味や解釈は異なる。

現在、中国共産党政権は「習近平新時代中国特色社会主義思想」、いわゆる「習近平思想」を掲げて思想統制を強化している。「正しい価値観」として「社会主義の核心的価値観」が規定され、国家の建設目標としての「富強・民主・文明・和諧」、社会の構築理念としての「自由・平等・公正・法治」、国民の道徳規範としての「愛国・敬業・誠信・友善」が徹底されている。「民主」や「自由」などは「普遍的価値」と共通するように見えるが、重要なのは「国家」、「社会」、「国民」について言及した前段部分であり、それらを超越する「党の指導」という絶対的優位性である。

習近平政権は国内で「社会主義の核心的価値観」を喧伝する一方で、国際社会に対しては「全人類共通の価値」を強調し、「人類運命共同体」の構築を主張している。2015年、習近平国家主席は第70回国連総会で「平和・発展・公平・正義・民主・自由は、全人類共通の価値であり、国連の崇高な目標でもある」と演説し、中国は国連憲章の原則を受け継いで世界の平和と発展のために新たな貢献を果たすと宣言した。

習近平国家主席が「平和・発展・公平・正義・民主・自由」について述べた際に、「普遍的価値」ではなく「全人類共通の価値」として提起した意図とは何か。国際社会に向けた「全人類共通の価値」と国内における「社会主義の核心的価値観」の整合性を図るとともに、多極化する国際社会において欧米中心の「普遍的価値」に対抗し、「価値観」を主導するための戦略的思考によるものといえよう。

現在、ウクライナ情勢は「平和」についての省察を国際社会に迫っている。中国は主権と領土の保全を強調して外交による問題解決を主張しているが、国連安全保障理事会と国連総会におけるロシア非難決議を棄権した。

一方、中国国内では、歴史学者たちがロシア政府とプーチン大統領に対して戦争停止を呼びかける声明をSNSで公表した。党や政府とは異なる民間の声に注目すると同時に、その声明が当局によって削除されたことも指摘しておきたい。SNSで拡散と削除が繰り返された様子から垣間見えるのは、中国社会の深層部に確かに存在する地下水脈のような民間の声であり、中国社会の多様性と複雑さの一端である。

 

「普遍的価値」をめぐる対話にむけて

2008年「日中共同声明」に明記された「普遍的価値の一層の理解と追求のために緊密に協力する」という合意に基づいた対話は可能だろうか。「普遍的価値」の理解と追求は容易ではないが、緊密な協力こそが共通の利益を獲得するための戦略的選択であると再認識する必要がある。

対話の手がかりは、「普遍的価値」という抽象的な概念を具体的に実質化することにあるだろう。コロナ禍とウクライナ危機という世界的な問題に直面し、国内では少子高齢化という共通の社会的課題を抱える中で、日本と中国は「平和」「安全」「発展」などの共通の利益を「普遍的価値」として対話する基盤を共有している。

留意すべきは、「価値観」をめぐる議論は内政干渉という批判を招くことだ。北京冬季五輪では、中国の人権問題を非難した外交的ボイコットが注目された。日本は衆議院本会議で「新疆ウイグル等における深刻な人権状況に対する決議案」を採択し、中国は強い抗議を表明した。1989年の天安門事件以降、日本の対中政策において「人権」は重要なファクターであり、近年は経済安全保障の観点からも注目されている。だが、日本社会で「人権」を含めた「普遍的価値」をめぐる議論が国民に広く共有され、深化しているとは言い難い。

「普遍的価値」をめぐる対話は、自省的かつ相互補完的であるべきだ。ウクライナ情勢について考え、新疆ウイグル自治区における人権状況や香港の民主主義について思考する際に問われるのは、日本の「市民社会」の成熟度である。

国交正常化50周年をむかえた日本と中国は、世界平和に対する一層の貢献が求められている。是非曲直について率直に議論する「諍友」として対話を継続し、利害の対立や冷戦思考を脱却し、共通の利益を模索するための戦略的選択を積み重ねる必要がある。

 

(おことわり)
API地経学ブリーフィングに記された内容や意見は、著者の個人的見解であり、一般財団法人アジア・パシフィック・イニシアティブ(API)やAPI地経学研究所等、著者の所属する組織の公式見解を必ずしも示すものではないことをご留意ください。

 

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