「API地経学ブリーフィング」とは、コロナウイルス後の国際政治と世界経済の新たな潮流の兆しをいち早く見つけ、その地政学的かつ地経学的重要性を考察し、日本の国益と戦略にとっての意味合いを精査することを目指し、アジア・パシフィック・イニシアティブ(API)のシニアフェロー・研究員を中心とする執筆陣が、週次で発信するブリーフィング・ノートです(編集長:細谷雄一 研究主幹、慶應義塾大学法学部教授、ケンブリッジ大学ダウニング・カレッジ訪問研究員)。
本稿は、東洋経済オンラインにも掲載されています。
https://toyokeizai.net/articles/-/593905
「API地経学ブリーフィング」No.107
(画像提供:アフロ)
2022年6月6日
日本と中国「経済安全保障」の概念が台頭した事情 - 「政経分離」の原則は何を境に霧消してしまったか
アジア・パシフィック・イニシアティブ(API)上席研究員
東京大学公共政策大学院教授 鈴木一人
日中国交正常化の歴史的な意義は、冷戦の枠組みの中で共産主義陣営の分断による国際秩序の再編にあるとみられることが多いが、この国交正常化は中国の改革開放を推し進める下地となり、その後の世界経済の構造にも大きく影響を与えるものでもあった。ここでは、国交正常化前から日中関係を形作ってきた「政経分離」の仕組みが2010年を境に変化し、経済安全保障の概念を導入せざるをえなくなった過程を明らかにしていく。
中国の経済発展における日本の役割
サンフランシスコ講和会議以降、日本は台湾を中国の代表として認めたが、当時の吉田内閣の反対を押し切って中国の招待を受けた緑風会の議員が日中民間貿易協定を結び、1950年代に4次にわたって更新された。しかし、国交回復前であり、CHINCOM(対中国輸出統制委員会)の制約や決済方法の複雑さなど、さまざまな障害を抱えたうえでの貿易であり、その経済的なインパクトは大きくなかった。
それが大きく転換するのが石橋湛山内閣、池田勇人内閣が対中貿易に前向きになり、中国も「友好貿易」を進める姿勢を強める中での、LT貿易の開始である。LTとは中国の中華人民共和国アジア・アフリカ団結委員会主席廖承志(Liao)と元通産大臣の高碕達之助(Takasaki)の間で結ばれた覚書に基づくものであり、国交回復前から「政経分離」の原則に基づいて貿易関係が築かれていったのである。
国交正常化後の日中経済関係は、それ以前からの関係に加え、鄧小平が1978年に来日し、日本の産業やインフラの整備状況を視察したことが、「改革開放」路線に大きな影響を与え、日本の産業発展モデルに対する関心が高まったことで大きく展開する。
この時期は中国が日本にキャッチアップする段階ではあったが、後の飛躍的な経済発展の基礎作りに日本が大きく貢献した時期でもある。文化大革命後の旺盛なインフラ需要や農業改革などへの支援、さらには賠償請求の問題を不問にした一方で、中国に対するODA(政府開発援助)として円借款を中心とする援助を行った。こうして、日中経済関係は、「政経分離」の原則を貫くことで、日本側にとっては、中国への進出によるビジネス上の利益と日中関係の安定化に寄与し、中国側にとっては技術指導などを通じた近代化の推進と経済発展を実現するものとして双方にメリットのあるものとなった。
天安門事件とWTO加盟
1989年6月の天安門事件は、中国の経済発展が民主化に向かっていくという楽観的な見通しを否定する衝撃的な事件であり、その経済発展を支えてきた西側諸国が中国と距離を置く出来事であった。天安門事件直後に開かれたG7アルシュサミットでは、武器禁輸や世界銀行の融資凍結などが合意され、日本も円借款を停止した。
しかし、近年公開された外交文書で、日本は当初から中国を孤立化させることに反対し、制裁に消極的であったことが明らかになっている。当時のアメリカのブッシュ(父)政権は日本が中国を擁護する立場を取ったことで日本が孤立化する恐れがあるとして、中国の孤立化に関する表現を緩和するよう働きかけた。なお、サミット直後に行った円借款凍結も1990年11月には解除している。
日本にとって、中国との関係を良好に保つこと、とりわけ国交正常化以前から進めてきた「政経分離」の原則を踏まえた経済関係の継続を優先した。日本が中国を擁護する立場を取ったのは、経済的な利益だけでなく、中国の孤立化による暴走を懸念したという側面もあるだろう。
中国が天安門事件による孤立化を避け、グローバルなサプライチェーンに組み込まれていく中で、飛躍的な経済発展を可能にしたのが2001年のWTO加盟であった。日本にとって、中国のWTO加盟は二国間貿易の枠組みから、多国間貿易の枠組みに転換することを意味し、東南アジア諸国に広がるサプライチェーンと中国を結び付けることで、さらに多角的な経済的結びつきの枠組みを作ることを目指していた。
中国もWTO加盟を跳躍台として「改革開放」を推し進め、「社会主義市場経済」を高度化していくことにコミットしていた。つまり、中国はWTO加盟を通じて一層市場経済に接近する姿勢を明らかにしたことで、日本を含む西側諸国に対して、中国も「西側の一員」のように振る舞うことを期待させた。
レアアース禁輸の衝撃
日本は一貫して中国との貿易を推進し、歴史認識問題や天安門事件のような民主化抑圧を含む、政治的な対立があった場合でも「政経分離」を原則として中国との経済関係を強化してきた。しかし、2005年の小泉純一郎首相の靖国神社参拝を契機として激しくなった反日運動が燃え盛り、日中関係が急速に悪化した。そんな中で2010年の中国によるレアアース禁輸が発令された。
これまで「政経分離」を原則としてきたと認識していた日本にとって、尖閣諸島周辺海域における中国漁船と海上保安庁船舶の衝突で、漁船の船長を逮捕したことは、貿易と切り離された問題であるはずだった。しかし、中国は(名目上は環境問題であったが)日本の自動車産業にとって不可欠であり、その輸入の90%近くを中国に依存していたレアアースの輸出を止めたのである。
この事件を皮切りに、中国との貿易関係は政治と切り離されたものではなく、政治的目的のために貿易を「武器化」することが現実となることが認識されるようになった。中国のレアアース禁輸は日本がWTOに提訴し、勝訴したが、こうした貿易の「武器化」は日本だけでなく、台湾の果物やオーストラリアの農産物や鉄鉱石、石炭、ノルウェーのサーモン禁輸、リトアニア製部品を使ったEU製品の禁輸など、例を挙げればきりがないほど続いている。この事件から「政経分離」の原則は消滅し、経済安全保障が日中関係の焦点となっていく。
経済安全保障の時代
レアアース禁輸事件後も「政経分離」の原則が維持されるという希望をわずかに持っていた日本だが、その希望が断たれたのは、第一にトランプ政権のアメリカがファーウェイ製品をはじめとする中国製品を使うことのリスクを強調し、クリーンネットワークなどのイニシアチブで圧力をかけてきたことがある。日本は明示的に中国製品を排除したわけではないが、事実上中国製品を調達しないことで排除し、日本の通信ネットワークに「信頼できない」ベンダーからの製品やアプリケーションがないことを証明することで、アメリカとの関係を優先した対応を選んだ。
第二に、新型コロナによるパンデミックは、マスクや医療防護具、ワクチンなどの世界的な需要が急増したが、その供給が中国に過度に偏っていることで、中国は「マスク外交」や「ワクチン外交」を展開し、生命や健康にかかわる製品にまで経済的強制を仕掛けてくる可能性が高まり、実際、欧州や南米諸国に経済的強制を実施したことである。同時にマスクやワクチンを優先的に輸出して中国の好感度を上げるという戦略も展開した。
こうした中国による「エコノミック・ステイトクラフト」の影響を軽減し、貿易を「武器化」することで政治的な圧力をかけられないようにするためにも、サプライチェーンの強靭化が求められるようになった。
WTOの機能不全が明らかに
第三に、トランプ政権期にアメリカが自由貿易に背を向け、WTOの上級委員の任命を拒むなど、WTOの機能不全が明らかになったことがある。2010年のレアアース禁輸はWTOで勝訴することで、少なくとも中国は自国からの禁輸といった措置は取らなくなったが、貿易を「武器化」しても、WTOを通じて歯止めをかけることができなくなった。そのため、国際法的な対処が難しくなり、自己防衛のための措置を取らざるをえなくなったのである。
こうした背景から、中国への警戒心を隠さない自民党の重鎮である甘利明が中心となって、「『経済安全保障戦略策定』に向けて」と題する提言書が2020年12月に出され、2021年5月にも経済安全保障戦略を「骨太の方針」に加えることを求める提言が出された。これらの提言を受けて、2021年に発足した岸田内閣では経済安全保障担当大臣を設け、若手の小林鷹之を大臣に据えて、経済安全保障推進法案の策定に注力し、2022年5月に同法案が国会で可決された。
しかし、こうした経済安全保障への傾斜が、対中経済関係を遮断する、いわゆるデカップリングに向かうわけではないという点には注意が必要である。日本はこの間も中国を含む多国間枠組みであるRCEPを批准し、中国との自由貿易を推進する立場も取っている。日本にとって、これからの対中経済関係は、一方では国交正常化以前から続く経済関係を維持し、自由貿易による双方の利益を追求しつつ、中国によるエコノミック・ステイトクラフトから自らを守るべく、基幹インフラや戦略的重要物資に関しては自律性を高めていくという措置を取る、という二階建ての対応をしていくことにならざるをえなくなるだろう。
(おことわり)API地経学ブリーフィングに記された内容や意見は、著者の個人的見解であり、一般財団法人アジア・パシフィック・イニシアティブ(API)やAPI地経学研究所等、著者の所属する組織の公式見解を必ずしも示すものではないことをご留意ください。
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