「API地経学ブリーフィング」とは、コロナウイルス後の国際政治と世界経済の新たな潮流の兆しをいち早く見つけ、その地政学的かつ地経学的重要性を考察し、日本の国益と戦略にとっての意味合いを精査することを目指し、アジア・パシフィック・イニシアティブ(API)のシニアフェロー・研究員を中心とする執筆陣が、週次で発信するブリーフィング・ノートです(編集長:細谷雄一 研究主幹、慶應義塾大学法学部教授、ケンブリッジ大学ダウニング・カレッジ訪問研究員)。
本稿は、東洋経済オンラインにも掲載されています。
https://toyokeizai.net/articles/-/537465
API地経学ブリーフィングでは、2022年の日中国交正常化50周年を記念して、「中国を知る。日中を考える」シリーズの連載を開始しました。論考一覧はこちらをご覧ください。
「API地経学ブリーフィング」No.96
画像提供:AP/アフロ
2022年3月14日
中国が抱える「感染爆発の香港」という大きな難題 - 「ゼロコロナ政策」への移行で疑問視される意義
立教大学法学部教授
倉田徹
突如やってきた感染爆発
世界の耳目がウクライナに集まる中、まったく異なる苦闘を強いられているのが香港である。戦いの相手は新型コロナだ。
感染の発生から2年あまり、香港は比較的よく感染を抑え込んできた。しかし、オミクロン株の流入により状況は一変、新規感染者数は1月下旬に1日当たり100人を突破した後、みるみる増加し、2月9日に初めて同1000人を突破、25日には同1万人を超え、3月2日には同5万人を上回るといった形で、まさに爆発的に増加した。
ベッドは不足し、病院前には長い行列ができた。死者も1日当たり100人を超えるようになり、一部の公立病院では霊安室があふれ、遺体を救急室に安置するほどの事態を招いた。物流を担うトラック運転手が多数感染したことで生鮮食料品の品薄が発生し、鉄道やバスも間引き運転や運休を強いられている。幼稚園と小中学校は3月7日から前倒しで「夏休み」に入った。
この状況には中国政府も大いに危機感を抱いている。2月16日の香港の共産党系新聞『大公報』と『文匯報』は一面で、習近平総書記が香港政府に対して、「防疫をすべてに勝る現下の最優先課題とし、すべての力と資源を動員し、すべての措置を講じて、市民の生命の安全と健康を確保し、香港社会全体の安定を維持せねばならない」との『重要指示』を発出した」と報じた。香港をめぐって共産党総書記が「重要指示」を発出するのは極めて異例の事態である。
習近平総書記が社会の安定に特に言及していることからは、防疫をめぐる政府内の意見対立や市民の反発などが政治問題化することへの憂慮がにじむ。2019年の巨大抗議活動の悪夢はまだ去っていないのであろう。
香港政府はこれを受けて、さらに厳しい防疫措置へと政策転換を強いられた。林鄭月娥(キャリー・ラム)行政長官は当初、3月27日に予定されていた行政長官選挙の延期は無用としていたが、習近平総書記の指示の後、防疫最優先の観点から選挙を5月8日に延期すると発表した。選挙自体は事実上北京の意向で当選者が決まる仕組みであるから、防疫の成否は林鄭月娥再選の行方も左右しよう。ワクチン未接種者のショッピングモールやレストラン等への入場も禁じられた。
「中国式」防疫への試練
西側諸国には実現不能な「ゼロコロナ」を達成しているとする中国は、感染爆発の元兇と見なされる立場から、一躍世界に冠たる防疫の成功例へと転じた。中国の防疫政策は、感染者が発生した際、その接触者を素早く特定し、大規模な検査や建物・地域などの封鎖を行って感染を早期に封じ込めることを特徴とし、そのために行動監視アプリが活用されている。プライバシーや私権を制限することで実現できる中国ならではの政策であり、その成功は単に政策の成功というだけでなく、中国の体制の優位性の象徴にまで持ち上げられている。
だが、香港の事例は、「中国式」が、中国以外の地ではおよそ応用困難であることを示す。それだけでなく、シナリオ通りの管理が困難な大きな問題が持ち上がった際に、「中国式」システムがそれに対応する能力の限界も露呈している。
人口約750万人の香港で、1日当たり5万人規模の感染者が市内至るところから確認される状況、しかも病院も隔離施設も足りない状態では、接触者の特定や隔離は防疫上大きな意味を持ちえない。
ところが、先述の通り、「中国式」防疫の柱は検査と隔離である。このため、香港政府は習近平総書記の「重要指示」の後、これまでは実施してこなかった「全市民に対する強制のPCR検査」を3回実施すると発表した。実施されれば世界的にも異例なほどの膨大な数の感染者を特定することになると予想される。しかし、感染者を見つけても、隔離・治療のため収容する施設は確保できない。何のための検査なのか。
ワクチンについても問題が指摘されている。香港では日本と同様のアメリカ・ファイザー、ドイツ・ビオンテックによるmRNAワクチンの採用を計画したが、昨年1月27日、習近平総書記が林鄭月娥行政長官に対し、香港の感染状況を「非常に憂慮している」と述べた直後、異例のスピード審査と手続きで中国企業・科興控股生物技術(シノバック)が開発した不活化ワクチンが認可され、先に接種が開始された。後にmRNAワクチンの接種も始まったが、現在までに200万人ほどがシノバックを接種している。
一方、各種の実験から、シノバックの効果がmRNAワクチンより劣っていることは検証されている。日本やシンガポールなどはシノバックを認可していない。シノバックについては当初、香港メディアで副反応の事例が多く報じられたこともあり、香港では特に高齢者の接種率が低く、これがコロナによる多数の死者につながっているのではと指摘されている。
「中国式」防疫の問題点を冷静に論じられない
ただ、防疫政策が国家の最重点政策にまつりあげられたために、香港では「中国式」防疫の問題点などを冷静に論じること自体がある種のタブーと化してしまっている。習近平の「重要指示」は、その発出の方法もまた異例であった。
通常、総書記の「重要指示」は、新華社の統一原稿という形で、多くの中国メディアで一斉に報じられるが、今回は香港2紙だけで報道された。中央政府は香港政府に厳しい責任を負わせる一方、香港で防疫が失敗し、感染爆発が起きていることを大陸の住民に広く察知されることを回避したいのではないか。武漢での感染爆発の隠蔽が失敗した後、共産党政権は素早く感染対策に本腰を入れて成功したように見えたが、政権が「不都合な真実」に向き合うことを躊躇する習性は決して根絶されたわけではない。
事態は現在進行形であり、この危機が最終的にどのような結末に至るかは見通せない。しかし、ここまでの防疫政策の展開からすでに示されているのは、中国が2019年の大規模抗議活動後の香港をどう扱おうとしているかという姿勢の問題である。これは日本が香港・中国との向き合い方を考えるうえでも重要な視点となる。
「中国式」統治と国際金融センターは両立するのか
2020年の「香港国家安全維持法(国安法)」導入に典型的に示されているように、抗議活動の鎮圧に際し、中央政府はこれまで香港に「一国二制度」の下で認めてきたさまざまな特殊性をなくし、共産党の領導の下で一元的に管理する「中国式」体制に香港を組み込もうとしている。
香港における「中国式」防疫の導入もその一環である。マイノリティの利益や政府への異論、地域の特殊性といった国内の多様性を除去し、一律に扱おうとする志向性は、少数民族に対する統治などにも現れる、習近平体制の特徴の1つであろう。
中央政府が国際都市である香港の特殊性に配慮しないことは、北京と香港の間だけの問題ではなく、日本を含む国際社会に対しても中国政府が配慮を示さないことを意味する。例えば、香港の厳しい防疫措置、とりわけ入境時に長期のホテル隔離を義務とする政策は、同じくアジアの国際金融センターと称されるシンガポールなどよりもはるかに厳しく、外資企業や外国人の間から多くの不満が寄せられている。感染力が格段に強いオミクロン株の流行にあたっては、香港も欧米が採用した「ウィズコロナ」に転じ、国際移動再開を目指すべきとの声が香港市民の間でも強い。
しかし、中央政府は新華社などの政府系メディアで「ウィズコロナ」の発想を強く批判し、「中国式」の「ゼロコロナ」を見習い、達成して、大陸との往来解禁を実現せよと主張する。ここまで高いハードルを設定してしまっては、今や香港がいつ外国との往来制限を解禁できるかはまったく見えない。その間に外資や外国人の香港脱出の動きが加速しているとも報じられている。
防疫は香港の「中国式」化の象徴的な事例である。政治・司法・社会・経済・国際関係など、香港で全面的に進んでいる「中国式」システムへの移行は、特に日本や外国人にとっての香港の意義を疑問視させる。日本人が中国や香港と付き合ううえでも、政治は横に置いてビジネスの話をしようという発想は残念ながら成り立たない時代が来ていることを、香港の変質が私たちに示しているように思う。
(おことわり)
API地経学ブリーフィングに記された内容や意見は、著者の個人的見解であり、一般財団法人アジア・パシフィック・イニシアティブ(API)やAPI地経学研究所等、著者の所属する組織の公式見解を必ずしも示すものではないことをご留意ください。
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