「API地経学ブリーフィング」とは、コロナウイルス後の国際政治と世界経済の新たな潮流の兆しをいち早く見つけ、その地政学的かつ地経学的重要性を考察し、日本の国益と戦略にとっての意味合いを精査することを目指し、アジア・パシフィック・イニシアティブ(API)のシニアフェロー・研究員を中心とする執筆陣が、週次で発信するブリーフィング・ノートです(編集長:細谷雄一API研究主幹 兼 慶應義塾大学法学部教授)。
本稿は、東洋経済オンラインにも掲載されています。
https://toyokeizai.net/articles/-/447696
「API地経学ブリーフィング」No.66
2021年08月16日
「滴滴出行」の株価暴落に映る米中金融摩擦の行方 ― 中国の「ドル覇権打破」戦略に勝ち目はあるのか
アジア・パシフィック・イニシアティブ(API)
シニアフェロー 徳地立人
「滴滴出行」の株価暴落
6月30日、中国配車アプリ最大手「滴滴出行」(DiDi)がニューヨーク証券取引所に上場、公開株価は仮条件上限の14ドル(時価総額約8兆円)になり、市場から大いに歓迎された。同社は会社設立から約9年、AI、データシステムを駆使したビジネスモデルにより急成長、市場の好反応もうなずける。
が、まもなく市場に激震が走る。7月4日、中国当局による「滴滴の個人情報収集の違法行為を確認し、アプリのダウンロード停止命令」、6日に「中国政府、海外上場企業への監督強化」のニュースが入ると株価は前週末終値に比べ25%暴落した。
昨年11月、世紀最大の株式上場と謳われた「アント金融」のナスダック上場の「無期延期」が記憶に残るなかで、今度は滴滴の株価暴落、ウォール街が今疑心暗鬼になっているのは、米中金融摩擦が、どこに行きつくのかだ。
「チャイメリカ」の米中金融関係
「新冷戦」と言われる中、皮肉にも米中間の金融ビジネスは活況を見せている。
日本経済新聞によると、アメリカの対中証券投資総額は約1.2兆ドル(約130兆円)で、その75%は株である。対し中国の対米証券投資総額は約2.1兆ドル(約230兆円)で、アメリカの対中証券投資額を超える。しかし、その9割以上(約1.96兆ドル)が米国債で、保有額は日本に次いで多い。
その膨大な金融ビジネスを支えているのがアメリカの大手金融機関だ。急成長する中国の金融市場にあやかりたいと、「新冷戦」どこ吹く風と、中国国内や香港での人員拡充に余念がない。今年に入りゴールドマンが中国最大手の工商銀行と合弁資産運用会社(ゴールドマン51:49)を設立したが、世界一金儲けの上手な投資銀行と世界最大の資金量を誇る商業銀行の「合作」は市場の注目をあびた。
ウォール街は民主党に近いと言われるが、米中金融界は相互補完関係――「チャイメリカ構造」が続いていたのである。
金融摩擦の焦点1―中国関連企業のアメリカ上場問題
今起こっている金融摩擦の焦点は何か。1つは中国関連企業のアメリカ上場問題だ。
目下アメリカには200社余りの「中国概念株式」が上場し、その時価総額は2兆ドルを超える。1990年半ばニューヨーク証券取引所に上場が始まった当初は、国営企業が主体だったが、中国経済の成長につれ、民間企業が増え、今では圧倒的に民間企業が多い。
2020年初に、新規上場したラッキン・コーヒーの粉飾が発覚し、中国の海外上場に関する会計監査制度が問題視され、昨年、投資家保護の視点から「中国企業を担当する監査法人がアメリカ当局による検査を受け入れなければ上場廃止とする」という厳しい内容の「外国企業説明責任法」が成立した。それに対し、中国政府は一貫として「外国当局の中国企業に対する直接検査は受け入れない」としている。
その矢先に「滴滴事件」が起きた。これは「中国国内のデータは一企業のデータでも、所属は国にある」(データ主権)と言う中国政府の主張により、今後海外上場する企業は、党の「中央ネット安全と情報化委員会弁公室」の厳しい事前審査が必要になった。これに対し、7月30日、SECは「中国当局による経営への干渉リスクなどを明示するよう求め」従わない場合上場を認めない方針を示した。
このようなアメリカ側の反応を十分予測しながらも、中国は強気に対応している。なぜか。筆者は、中国政府が、次の3点で判断していると思う
1)データ主権は米中摩擦の核心問題で譲れない
2)中国企業がたとえ上場廃止になっても香港や国内市場で十分対応できる
3)上場廃止をして困るのは中国よりもアメリカの投資家や金融業界
そして、これらはどれも正しい。
香港はこの数年、中国銘柄の上場を多くこなし、世界各国から膨大な資金を吸収、資金調達額ではすでにニューヨークやナスダックに引けを取らない。アメリカに上場する中国関連企業の株主はウォール街を中心にした海外のPE(プライベートエクイティ)ファンドや金融投資家で、本土の投資家は創業者と部分的な投資家に限られる。現に滴滴の最大の投資家はソフトバンク傘下のビジョン・ファンドだ。上場廃止でいちばん困るのは、このような海外投資家かもしれない。
強気の中国と妥協しないアメリカ、データの主権争い、強まる中国政府によるインターネット・プラットフォーマーへの圧力、アメリカの中国軍事関連企業への制裁など複雑に織り交ざる問題と相まって、今後は上場廃止が増える可能性は避けられないだろう。
今後注目すべきなのは以下の2点であろう
① 今まで中国で認められていた「VIE」―中国企業が規制を迂回しアメリカに上場する仕組みが、中国で「違法」との判断が出るか
② 上場廃止された中国企業に対し、アメリカ政府がアメリカ投資家に対し何らかの「投資禁止命令」を出すか
前者は、主な「中国概念株式」が採用しているスキームなので、万一「違法」になれば、理論上株式は紙切れになり、中国の対米金融戦争の「宣戦布告」を意味する。後者は、既存のアメリカ投資家の首を絞めるため、これも簡単には使えないだろう。
金融摩擦の焦点2―金融制裁
もう1つの焦点は、ファーウェイ事件に見る「安全保障に関連する問題」やウイグル、香港の「人権問題」などから発する中国企業への「金融制裁問題」だ。
金融制裁で懸念されるのは、「制裁報復合戦」のエスカレートだ。保有国債放出、金融資産の凍結、全面的な対銀行や企業のドル決済システムよりの排除等に進めば、世界経済は大混乱に陥る。そうなれば、第2次世界大戦前のアメリカによる日本への石油禁輸政策のように、全面的金融制裁が中国の台湾進攻などを刺激することにもなりかねない。
金融制裁は為替、送金、預金など金融のあらゆる面で企業を締め付けることを目的としているため、基軸通貨であるドルを持つアメリカが圧倒的に有利だ。この点、中国は十分に認識しており、現在中国は以下の3つの対応に徹しているように感じる。
<1> できる限り「現状維持」を堅持し、時間を稼ぐ
<2> アメリカの金融制裁が行われた場合には断固とした報復措置を施行し、アメリカの金融制裁のコストを高くし、排除する
<3> 独自の国際金融システムの迅速な構築をする
独自の国際金融システムの構築には長期視点が欠かせないが、特筆できることが2つある。
1つは2015年に人民銀行がスタートしたクロスボーダー・インターバンク・ペイメント・システム(CIPS)の外貨決済システムで、人民元を中心にした独立した通貨システムだ。すでに900社以上の内外の銀行が参加し、日本や欧米の主な銀行も加盟している。CIPSにおける年間外貨決算総額は2016年に4.36兆元(約70兆円)だったが、2020年には、45兆元(約720兆円)になり確実に増えているが、まだドル基軸の通貨システムに挑戦できる状況ではない。
もう一つは日本でも話題に上るデジタル人民元の創設だ。来年初めに開催される、北京冬季オリンピックより正式導入が見込まれており、実現すれば世界最大の中央銀行のデジタル通貨になる。いま海外で懸念されるのは、フェイスブックのマーク・ザッカーバーグ会長がアメリカ議会の公聴会で発言した、デジタル人民元の創設により「ドル覇権が脅かされる」ことだ。
しかし現状では、その可能性は小さい。元来デジタル人民元は国内個人ベースの「現金」決済のシステムで、それだけでは人民元の国際化は実現しないからだ。一通貨の国際化にはその国の自由な為替政策と金融資産の流動性を保障する制度が必要で、それはデジタル人民元の創設とは別次元の話だ。
従って、今後海外でデジタル人民元が広まるケースは、中国経済の影響下にあり、人民元の直接使用も可能な一部の中央アジア諸国や東南アジア諸国に限られるであろう。
中国から「金融戦争」を仕掛ける合理性はない
西側諸国にとって最大のチャレンジは、デジタル人民元のブロックチェーンの技術やシステムのデファクト・スタンダードになるだろう。デジタル人民元の技術がスタンダードになれば、「データ保護のリスク」や「非ドル取引」の増加などが課題になるからだ。腰の重い先進諸国の中央銀行がデジタル通貨の研究、開発をスタートした理由だ。
このように中国は「ドル覇権打破」戦略の準備を怠らないが、現状は中国にとって厳しい状態が続く。このような状況では、中国から「金融戦争」を仕掛ける合理性はないと言っていいだろう。
(おことわり)
API地経学ブリーフィングに記された内容や意見は、著者の個人的見解であり、一般財団法人アジア・パシフィック・イニシアティブ(API)やAPI地経学研究所等、著者の所属する組織の公式見解を必ずしも示すものではないことをご留意ください。
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