「API地経学ブリーフィング」とは、コロナウイルス後の国際政治と世界経済の新たな潮流の兆しをいち早く見つけ、その地政学的かつ地経学的重要性を考察し、日本の国益と戦略にとっての意味合いを精査することを目指し、アジア・パシフィック・イニシアティブ(API)のシニアフェロー・研究員を中心とする執筆陣が、週次で発信するブリーフィング・ノートです(編集長:細谷雄一API研究主幹 兼 慶應義塾大学法学部教授)。
本稿は、東洋経済オンラインにも掲載されています。
https://toyokeizai.net/articles/-/398203
「API地経学ブリーフィング」No.33
2020年12月28日
バイデン政権にアジア政策転換が求められる訳 ― 米国は新たなリバランシング戦略を追求せよ
アジア・パシフィック・イニシアティブ(API)
理事長 船橋洋一
バイデン次期政権はアジア重視の方向
アメリカのバイデン次期政権は同盟重視とともにアジア重視を打ち出すことになりそうである。バイデンは、「アメリカはれっきとした太平洋国家であり続けてきたし、いまもそうだし、これからもそれは変わらない」と述べている。アメリカはアジア太平洋におけるプレゼンスを今後とも維持する、そして西太平洋を拠点とする前方展開と戦力投射の能力を弱めることはないとの意思表示である。
また、次期政権で国務長官就任が予定されているトニー・ブリンケンは「バイデン大統領は、ASEANの会合にはちゃんと顔を出す」と発言している。トランプ大統領がASEANを中核とする東アジアサミットに任期中、一度も出席しなかったことを念頭に置いての発言と受け止められている。
政権移行チームの中には、ホワイトハウスの国家安全保障会議(NSC)にアジア担当統括官(ツァー)を置くべきだとの構想があるとの報道もある。アジアを中国、インド、日本をはじめとする同盟国・友好国の3つの部門に分け、その全体を統括する戦略司令塔が必要との認識のようである。
トランプ政権の4年間、アメリカはアジア太平洋の新たな地域アーキテクチャー構築の歩みから取り残された。政権発足直後、この地域の12カ国の多角的な自由貿易推進の枠組みであるTPP(環太平洋パートナーシップ協定)から一方的に撤退することを宣言した。政権末期、日中韓を含むアジア15カ国によるRCEP(地域的な包括的経済連携協定)の締結をアメリカは指をくわえて見守るしかなかった。アメリカ抜きのアジアだけの地域的連携が中国主導で進むのではないか、と懸念する声もワシントンでは聞かれる。
実際のところ、アジアはアメリカがアジアに参画できないからといってアメリカを待つことはない。アジアは世界1位(中国)、2位(インド)、4位(インドネシア)の人口大国を抱え、世界でもっとも躍動的に発展する経済を擁し――ASEANは2030年までに日本を抜いて世界第4位の経済規模となる――、もっとも上昇志向の強い中産階級を育て、もっとも分厚い貯蓄を持ち、世界の工場から世界のイノベーション・センターへとのし上がりつつある。
そのうえ、東アジアの国・地域はコロナ危機を世界のどこよりも機敏かつ効果的に対処している。コロナ後の世界は、その重心を西欧から東アジアへと一段と移していくに違いない。世界がアジアを追わなければならなくなるだろう。バイデン政権のアジア重視もまたその表れとみるべきである。求められるのは、アジアの新たな戦略環境の激変に応えるべく、アジアとともにアジアの安定と平和を構築するためのリバランシング戦略である。
アメリカのアジア・リバランシングの歴史
アメリカは、戦後、国際戦略環境の激変に対して、大胆なアジア・リバランシング戦略を追求し、地域の安定と平和を構築してきた。
最初のリバランシングは、戦後、トルーマン政権が冷戦の到来を背景に追求した。それを構想したのは、対ソ封じ込め論を提唱したジョージ・ケナン国務省政策企画局長だった。ケナンは満州事変から太平洋戦争に至る1930~1940年代のアジア戦略を根本的に見直し、それまでの中国重視のアジア政策を日本重視に切り替える“逆コース”を提言した。4年間近く敵味方で戦った日米は、戦後5年強で同盟国となった。日本はその後、ブレトンウッズ体制に迎え入れられた。それが戦後の日本の経済の奇跡を生んだ。
次のリバランシングは1970年代初頭のニクソン政権の対中接近政策である。ニクソン・キッシンジャーによるこの対中関与政策は対ソ勢力均衡とベトナムからの撤退を企図して中国と提携する戦略再編だった。中国はアジア太平洋におけるアメリカの軍事プレゼンスを事実上黙認し、その後、アメリカは中国と国交を樹立した。
中国は、アメリカ主導の国際秩序を受け入れ、改革・開放に向かった。それが鄧小平の中国の経済の奇跡をもたらした。アメリカは、この第1のリバランシングの上に第2のリバランシングを積み上げたことで70年に及ぶアジア太平洋の長い平和を築き上げたのである。
アメリカがアジア戦略において再びリバランシングの必要性を感じたのは2010年代のオバマ政権においてである。それは、中国の攻勢に応えるため地域の同盟国・友好国との防衛協力強化と海軍力の増強を図ったものだった。国防総省は2012年1月の国防戦略指針でアジア太平洋と大西洋における米海軍の艦艇配備を5対5から6対4にする”ピボット“を打ち出した。
しかし、オバマ政権のリバランシングは不発に終わった。オバマ政権の8年間、アメリカのアジア太平洋における兵力規模はほとんど変わらなかったし、国防予算の圧縮で調達や訓練の関連予算も切り詰められた。
オバマ・リバランシングが成功しなかった理由
なぜ、オバマ・リバランシングは成功しなかったのか。
まず、アジア全体の戦略を作る前に米中関係の枠組みづくりに傾斜し、アジア政策を対中政策の枠組みの中に組み込もうとしたためである。国防総省の“ピボット”指針表明の1カ月後、中国は米中の「新式の大国関係」構想をアメリカに提案した。その内実は、米中間のこの地域における“新式の勢力圏棲み分け”を隠れた意図とするものだったが、オバマ政権は、一時、それにはまりかけた。
次に、2012年からのフィリピンのスカーボロー礁をめぐるフィリピンと中国の領有権紛争に関して結果的に中国の占拠を許したことである。アメリカは、その後の南沙諸島で人工島や軍事施設などの建設を進める中国の修正主義的行動も制止できなかった。それは、アメリカの抑止力とクレディビリティへの疑問を深めることになった。
それから、リーマンショック後の中国国内のアメリカ衰退論の浸透と中国の覇権的野心(「中国の夢」)の地政学的リスクとAIや5Gをはじめとするハイテクとサイバー・パワーの大躍進と経済力を武器化する地経学的挑戦の脅威を認識するのが遅れた。
そして、グローバル化と第4次産業革命の国内産業と経済社会への負荷とそれに伴うポピュリズムの噴出と政治分断への対応も不十分だった。オバマ政権はTPP交渉をまとめ上げたにもかかわらずそれを批准できなかった。2016年の大統領選挙では共和党のトランプだけでなく民主党もヒラリー・クリントンはじめ4人の候補全員がTPPに反対した。
バイデン次期政権はオバマ政権のリバランシングの失敗を検証し、それを踏まえた新たなリバランシング戦略を打ち出すべきである。
今回、何よりも求められるのは、アジア太平洋地域における包括的かつ多角的な貿易政策を確立することである。アメリカの国益は関税ではなくルール(法の支配)とルールに基づいたビジネス標準の確立にある。アジア太平洋における貿易と投資は中国がもっとも競争優位を持っている分野であり、アメリカの多角的政策関与が遅れるほど中国を利する。
バイデンは7年前の夏、シンガポールにおける安倍晋三首相(当時)との会談で、リバランシング政策を成功させるためには日本の戦略的役割の重要性を強調し、その観点からTPPの交渉を重視していると述べた。バイデン政権は貿易政策に関して、労組の保護主義ともトランプの「アメリカ・ファースト」とも異なるナラティブを用意しなければならない。
次に、競争的共存を軸とする対中政策を確立することである。競争的共存の本質は、競争しなければ、共存できない。そして、競争できなければ、中国に支配される、ということである。ここでは、同盟国と共に中国の地経学的脅威に取り組むことが大切である。
同盟国もアメリカ依存の脱却が必要
もとよりバイデンはコロナ危機の惨状を前に、国内の立て直しを最優先課題にせざるをえない。アメリカの世界への再参画はこれまで以上に選択的に行うことになるだろう。同盟国もアメリカ依存から脱却することが求められる。21世紀のアメリカのアジア・リバランシング戦略を成功させるには、より独立し、しかしより信頼される同盟国との協力が不可欠である。バイデン政権は日本を含む同盟国をそのような方向へと向かわせるよう奨励し、同盟国の力を引き出すべきである。
その機は熟している。オバマ政権のとき、リバランシング政策は対中封じ込めの別名かとアジアは疑い身構えた。いま、日本とアジアの同志国はバイデン政権の本格的なリバランシング政策を待っている。
(おことわり)
API地経学ブリーフィングに記された内容や意見は、著者の個人的見解であり、一般財団法人アジア・パシフィック・イニシアティブ(API)やAPI地経学研究所等、著者の所属する組織の公式見解を必ずしも示すものではないことをご留意ください。
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