「API地経学ブリーフィング」とは、コロナウイルス後の国際政治と世界経済の新たな潮流の兆しをいち早く見つけ、その地政学的かつ地経学的重要性を考察し、日本の国益と戦略にとっての意味合いを精査することを目指し、アジア・パシフィック・イニシアティブ(API)のシニアフェロー・研究員を中心とする執筆陣が、週次で発信するブリーフィング・ノートです(編集長:細谷雄一 研究主幹、慶應義塾大学法学部教授、ケンブリッジ大学ダウニング・カレッジ訪問研究員)。
本稿は、東洋経済オンラインにも掲載されています。
https://toyokeizai.net/articles/-/596047
「API地経学ブリーフィング」No.108
画像提供:ロイター / アフロ
2022年6月13日
日本の対中戦略がこれまで不在だった3つの理由 - 成長をどう受け止め日米同盟とも整合性を図るか
アジア・パシフィック・イニシアティブ(API)常務理事・研究主幹
慶應義塾大学法学部教授、ケンブリッジ大学ダウニング・カレッジ訪問研究員 細谷雄一
日中間の4つの基本文書
戦後の日中関係は、いくつかの重要な画期が見られた。その中でも最近の重要な画期は、2014年11月の日中首脳会談であった。それは、それまで尖閣諸島をめぐり摩擦と緊張を高めていた日中関係を、緊張緩和と安定化へと向かわせる契機となった。
2014年11月10日、日本の安倍晋三首相が中国の習近平主席との首脳会談を行い、その結果「日中関係の改善に向けた話合い」と題する文書を発表した。そこでは、第1項目として、「双方は、日中間の4つの基本文書の諸原則と精神を遵守し、日中の戦略的互恵関係を引き続き発展させていくことを確認した」と書かれている。
ここでは「日中間の4つの基本文書」という言葉が用いられている。言うまでもなくそれは、1972年9月29日の「日中共同声明」、1978年8月12日の「日中平和友好条約」、1998年11月26日の「日中共同宣言」、そして2008年5月7日の「日中共同声明」である。これらが現在の日中関係の基礎となっていることは、困難や不透明性が続く中でも、いわば共通の認識になっているといえる。これらの文書の蓄積が、現在の日中関係の基礎となるものである。
ところが、冷戦後の30年間で、日本の対中政策は大きな振幅を見せ、長期的な政策の検討が困難となっていった。はたして日本はどのような日中関係を望ましいものと考えて、どのようなアプローチをしようとしているのか。日本は中国の経済成長を、はたしてどのように受け止めるべきか。そしてそのような日中関係は、日米同盟とどのような整合性を持つのであろうか。
また日本は、日中関係における経済的な観点からの国益の定義と、安全保障上の観点からの脅威認識をどのように結びつけるのであろうか。いうならば、これまで対中戦略が存在しないということこそが、日本の中国に対する基本的な姿勢であったのではないだろうか。言い換えれば、日本がどのような対中戦略であったのかを示すことができる明確な文書を提示することが困難なのだ。
なぜ対中戦略が不在であったのか
それでは、なぜこれまで日本に対中戦略は不在であったのか。それには、以下のようないくつかの理由があるのではないか。
第1の理由は、日本と台湾との関係の複雑さである。戦後の日中関係の基本は、サンフランシスコ平和条約が発効した1952年4月28日に署名を行った、台湾の中華民国との間の「日華平和条約」を基礎とした中華民国との関係と、1972年9月29日の「日中共同声明」と1978年8月12日署名の「日中平和友好条約」を基礎とした中華人民共和国との関係という、「2つの中国」との関係によって規定されてきた。そしてその大枠は日本が主体的に構築したものというよりも、その時代の米中関係に大きく規定されるものであったのだ。
1951年9月のサンフランシスコ平和条約の締結の際に米英間、さらには日米関係で難しい外交議題となったように、日本は台湾の政府を選択することがいわば既定路線であったのだ。1972年の国交回復以後、北京政府の「1つの中国」という立場を尊重しながらも、日中関係と日台関係をどのように整合させるかという難問に対して、主体的な戦略を提示することが困難であった。
第2の理由は、戦後処理と歴史認識問題である。アメリカやイギリス、フランスのようなほかの主要国とは異なり、日本は戦後の日中関係を、それが台湾の中華民国政府であっても、北京の中華人民共和国政府であっても、戦後処理を最大の外交課題として対応せねばならなかったことである。言うならば、日中間の外交関係の基礎を構築することこそが戦後日本の対中政策の目標であり、そのために膨大な努力が割かれていた。それは平和条約の締結をもって完了することができるというものではなかった。
第3の理由として、戦後日本の対中ODA(政府開発援助)政策において、それを戦時賠償の代替と位置づけると同時に、政治的な戦略よりも経済的な相互利益の追求を優先する傾向が見られた。また日本では、それにより中国の近代化や経済成長を支えてきたという認識が浸透している。実際に、そのような対中ODAが日中両国の経済的つながりを強化して、相互の利益を育んできた。
外務省のホームページの説明では、「1979年以降、中国に対するODAは、中国の改革・開放政策の維持・促進に貢献すると同時に、日中関係の主要な柱の1つとしてこれを下支えする強固な基盤を形成してきました」と記述されている。中国経済を成長させるために日本が協力することが、上に述べた戦後処理や歴史認識問題とも不可分に連動していたのである。
そして、その説明によれば、「対中ODAは2018年度をもって新規採択を終了し、すでに採択済の複数年度の継続案件については、2021年度末をもって全て終了することになります」という。だとすれば、「2021年度末」をもって、戦後の日中関係の歴史で1つの画期になったともいえる。
これらの理由から、日本は主体的で、長期的な視野からの対中戦略を持つことが困難であった。それによって、関係が悪化した際の短期的な日中関係の関係修復や、日中経済協力の強化、そして日中友好こそが、日本の対中政策の目標とされてきた。だがそのような時代も、終わりつつある。日本の長期的な国益を想定して、望ましい対中戦略を主体的に構築しなければならない時代が到来したのである。
日本にとって望ましい対中戦略とは何か
それでは、日本にとってはどのような対中戦略が望ましいのであろうか。
これまでの日本の対中政策は、中国の経済成長をODAによって支え、それを日本の国益とみなし、アジア太平洋で中国が建設的な役割を担うことを期待することをその基礎としていた。それが大きく動揺している。
1972年に日中国交正常化を実現した際にその基礎にあったのは、自民党内の中道的な立場にあった田中派(経世会)の領袖(りょうしゅう)の田中角栄首相と、リベラルな立場にあった大平派(宏池会)の領袖の大平正芳外相の2人の協力であった。他方で、党内で保守の立場にあった福田派は、親台湾派の議員を多く抱え、台湾との関係を断って北京の共産党政権と外交関係を樹立することへ、躊躇する姿勢も見られた。
そのようにして成立した「1972年体制」は、1978年に福田派の領袖の福田赳夫首相の政権で日中平和友好条約を締結したことが大きな意味を持つ。いわば、自民党内で派閥横断的に、中国との経済関係を拡大し、友好関係を醸成することへの支持が確立していったのである。最大野党の社会党も、対中関係の発展には自民党以上に積極的であり、さらには外務省のチャイナ・スクールが水面下で実務的にそれを支えていた。そのようなコンセンサスも、冷戦の終結と、日本の経済的な停滞による日中間のパワー・バランスの変化によって、侵食されていった。
さらに、現在の国際環境は、冷戦時代に「1972年体制」が成立した時代とは、大きく異なっている。中国とロシアは実質的に同盟国のような協力関係を示し、2022年2月4日の中ロ首脳会談では、両国間の「限界のない友情」を示し、また両国の戦略的協力は「不動なもの」と位置づけた。中国とロシアという2つの権威主義体制が協力を深め、他方で日米欧の民主主義諸国が連携を強化する中で、米中対立を中核として国際社会は2つの勢力への分断を強めている。そのような大きな見取り図の中に、日中関係の今後を位置づけて、対中戦略を検討する必要がある。
日本に求められる外交努力
そのような国際情勢の変化を前提として、日本政府は国家安全保障会議の4大臣会合を活用し、日本の国家戦略の中核に対中戦略を位置づけて、政府としての長期的な基本方針を有するべきである。その際には、米中対立が緊張を高める中で、日本は日米同盟を基軸に対中抑止力を強めると同時に、中国との多層的なコミュニケーションを維持、強化して、日中関係が一定程度安定的に発展するための外交努力を行う必要がある。
そのうえでアメリカとは異なり日本がRCEP(地域的な包括的経済連携)に参加して、日本の国益を考慮して主体的に東アジアにおける地域的な経済協力を促進することも重要な意味を持つ。対中抑止力の強化を推進し、一定の経済領域では経済安全保障の観点から対中経済関係に制約を設けながらも、地域経済の発展のための日中間の協力を進めることは可能だ。
2021年度末(2022年3月)をもって対中ODAがすべて終了したということは、戦後の1つの時代の終わりを画することになるであろう。だとすれば、日中国交正常化の50周年となる2022年中に、今後50年を視野に入れた長期的な対中戦略を検討して、それが政府内で、さらには国民の中で共有されることが重要となるであろう。
(おことわり)
API地経学ブリーフィングに記された内容や意見は、著者の個人的見解であり、一般財団法人アジア・パシフィック・イニシアティブ(API)やAPI地経学研究所等、著者の所属する組織の公式見解を必ずしも示すものではないことをご留意ください。
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