日本に眠る「現預金1056兆円」が宝の持ち腐れな訳(向山淳)


「API地経学ブリーフィング」とは、コロナウイルス後の国際政治と世界経済の新たな潮流の兆しをいち早く見つけ、その地政学的かつ地経学的重要性を考察し、日本の国益と戦略にとっての意味合いを精査することを目指し、アジア・パシフィック・イニシアティブ(API)のシニアフェロー・研究員を中心とする執筆陣が、週次で発信するブリーフィング・ノートです(編集長:細谷雄一API研究主幹 兼 慶應義塾大学法学部教授)。

本稿は、東洋経済オンラインにも掲載されています。

https://toyokeizai.net/articles/-/452665

「API地経学ブリーフィング」No.69

2021年09月06日

日本に眠る「現預金1056兆円」が宝の持ち腐れな訳 ― マネー力を活かすカギは日本型ガバナンス脱却に

アジア・パシフィック・イニシアティブ(API)
主任研究員 向山淳

 

 

 

アベノミクス第3の矢は目的地に届いたのか

2021年6月に発表された日銀の資金循環統計で、家計金融資産はコロナ禍での外出自粛による消費減少や株高もあり、過去最高の1946兆円と発表された。

2012年末に発足した安倍政権において、アベノミクスの3本目の矢である「民間投資を喚起する成長戦略」では、家計資産や公的年金等をリスクマネーや成長資金の提供に向かわせることが明確な戦略の1つであった。

2013年末に有識者がまとめた「金融・資本市場活性化に向けての提言」では、当時1600兆円余の家計資産のうち半分が現預金であり、また、公的年金等も多く現預金を保有していることを「眠っている」状態と指摘。潜在成長力の引き上げに向けて金融・資本市場の戦略的な構造改革が必要とされ、資金を成長に振り向けるための金融・資本市場の総合的な魅力の向上策や、アジアの潜在力の発揮とその取り込み施策が提案された。

それからもうすぐ8年。日本のマネーを取り巻く「戦略的な構造改革」はどの程度進んだのだろうか。残念ながら提言で触れられたような「2020年までに国際金融センターとしての地位を確立する」という大きな絵姿に向かった構造的変化が起きているとは言い難い。8年前より積み上がった家計の金融資産の構成は、依然としてその54%、1056兆円が現預金であり、また、金融機関側の資産は欧米と比較し圧倒的に貸出・国債の比率が高い。日本の「マネーの力」は引き続き眠り続けているようだ。

さまざまな個別施策のうち、個人の資産運用を後押しするNISA導入、世界最大の公的年金であるGPIF(年金積立金管理運用独立行政法人)のガバナンス改革、日本版スチュワードシップコードの策定など、漸次的ではあるが一定程度進んだものもある。一方で、日本の投資運用業の運用能力の向上に関しては、官・民共に、構造的な根深さを感じさせる事象も多く起きた。

200兆円という世界的に存在感のある規模で運用を行う、ゆうちょ銀行の運用力向上の取り組みは道半ばで停滞した。2015年の日本郵政グループ上場を機に、運用を強化する方針を打ち出し、日本国債中心の投資から、株式・外債・ヘッジファンド、PE等のオルタナティブ資産へのシフトによる運用力の深化を図った。海外ファンドマネージャーを意識した報酬体系で多くの運用のプロフェッショナルを登用し、日本の金融機関として先進的な取り組みを進めるかに見えた。

しかし、改革を主導したゴールドマン・サックス出身の佐護勝紀副社長(当時)が2018年にソフトバンクグループに転出するなど、当時「7人の侍」と呼ばれ、改革を主導した幹部の半数が退社。以降、戦略投資領域とするオルタナティブ投資残高の拡大目標を当初の半分に引き下げるなど、リスクテイク姿勢も後退している。

 

官民ファンドの活用も苦戦

また、政府が主導するリスクマネー供給策も困難に直面した。日本では歴史的に間接金融が中心だった構造上、欧米のようなエクイティ資金の循環に国民も企業も慣れていない。民間では大胆なリスクが取りにくいとの課題があるなら……、と政府主導の呼び水効果を期待し、官民ファンドの活用が構想された。

結果として、省庁の縦割り論理で10を超える各省庁傘下の官民ファンドが乱立。また、第4次産業革命時代の国内向けのリスクマネーの戦略主体として設立された株式会社産業革新投資機構(以下、JIC)では、2018年末、発足して3カ月で経産省との間で報酬水準を巡り対立、田中正明社長ら取締役9人が一斉に退任した。

田中氏は辞任会見で「いわば『民のベストプラクティスを活用する官民ファンド』ではなく『100%近い株式を保有する株主として、国の意向を反映する官ファンド』へと重大な変化を遂げ」たことで「わが国の将来のためにと思って志した目的を実務的に達成することは困難」になったため辞任した、と述べた。

他国に目を転じてみれば、戦略的かつ長期的に金融市場の活性化を行ってきた国もある。シンガポールは、1990年代後半からアジア通貨危機等を背景に、産業競争政策としてアジアの金融センターを目指すことを決めた。

 

シンガポールは何が違うのか

資産運用ビジネスを戦略的な産業として明確に位置づけ、税制、ITインフラ、人材の誘致と専門性向上のための教育、さまざまな施策を包括的に実施。政府資産の運用についても、元々政府系企業の持ち株会社の統括のためや外貨準備の運用のための機関であったソブリン・ウエルス・ファンドのテマセク・ホールディングス(以下、テマセク)、GIC(シンガポール政府投資公社)の運用方針を変更。戦略分野のノウハウの蓄積・産業育成を目的に、GICの民間運用機関への開放やテマセクの国外での積極投資を実施した。

GICは国外に限定して、株式、債券、不動産、PE等に分散投資しポートフォリオで長期運用を行い、20年の実質利益率は約4% 。テマセクは、エクイティ性資金を長期でアクティブ投資し、中国を含むアジアの成長を取り込み、デジタル化や長寿化等の長期トレンドを捉えスタートアップ等の成長分野への投資も積極的に行う。

昨年6月には、コロナを機に独バイオ医薬ベンチャーのビオンテックに2億5000万ドルを出資。今年5月にはビオンテックがシンガポールにメッセンジャーRNA技術に基づくワクチンの製造拠点と東南アジア地域の統括本部を設置すると発表する等、投資を通じてしたたかに国の経済戦略に繋げる様子もうかがえる。市場回復期には売却も着実に行って収益を確保しており、10年で7%、1974年からのトータルで14%の株主収益率(SINドルベース)を実現している。

官主導でありながら、2社のガバナンスは民間企業レベルとされており、独立した意思決定機能を有し、情報開示のレベルも高いことが特徴だ。シンガポール政府は20年をかけて、自国のGDPを凌駕する規模と高い運用実績を持つ今日の姿の投資機関に意志を持って育ててきた。

日本での官民ファンドの状況や、特に公的な分野での報酬に対する国民の批判を踏まえれば、シンガポールのように完全に政府が主導していくモデルが日本に馴染むかは疑問が残る。しかし、明確な目的意識、包括的で長期を見据えた段階的な戦略の実行が20年の歳月で差をつけることは明白だ。日本は次の10年でどのような戦略を立てていくのだろうか。

ゆうちょ銀行、JICが映し出した課題は、日本において運用に最適なガバナンスを確立する難しさだ。グローバル標準の運用体制を実現するには、特に、インセンティブ設計と意思決定という2点で、今までの日本の雇用慣行上の考え方を根本的に変える仕組みを実現しなければならないからだ。

 

躓く運用改革と背景にある構造問題としてのガバナンス

金融は極めて高度な専門性を必要とする分野である。ファンドマネージャーたちが超過リターンを求めて経済合理性を追求し合うプロの世界は、スポーツのトップ・アスリートの世界に近い。世界の強豪と戦える専門家を雇い育てるためにはグローバル標準の報酬体系・人事制度が欠かせない。

ただ、それは必ずしも人員獲得のための金額の多寡という限定的な意味ではない。適切なリスクをとることを後押しし、執行においては迅速な意思決定を許容し、一方で透明性を確保して厳しく結果責任を求める、そのようなガバナンスの仕組みそのものだ。

投資目標・投資基準や責任所在が明確ではなく、リスク回避的なマインドで定年退職まで逃げ切ったほうが得で、投資判断の決裁に1カ月かかるような組織では、高額な外部運用委託費用ばかりが積み上がって、良い成績は上がらない。

また、多額の運用を行えば、短期で見れば損失が出る局面は必ず起きる。四半期等の短期の期間損益の表面上の数字に一喜一憂せず、投資目的や期間に照らし、リスク勘案後の適正なリターンへの評価をする忍耐力も必要だ。だからこそ、明確な長期戦略とそれを実現するための組織のガバナンスの仕組み、それをやり切るまで譲らない断固たるトップの意志がないと実現できない。

日本では、国内市場の縮小や世界的な低金利環境によって金融機関にとっては非常に厳しい状況が続いている。特に民間の機関投資家が運用能力の向上を真剣に考えなければ、巨大な船がじわじわと沈んでいくように縮小均衡に陥るだけである。いつかは貯蓄率の減少で減っていく「眠ったお金」に、まだ潤沢なうちに目を覚ましてもらい、持続的な国民の厚生と健全な資金循環による活力のある経済の一助とするのには、官民両方の覚悟が求められる。

 

(おことわり)
API地経学ブリーフィングに記された内容や意見は、著者の個人的見解であり、一般財団法人アジア・パシフィック・イニシアティブ(API)やAPI地経学研究所等、著者の所属する組織の公式見解を必ずしも示すものではないことをご留意ください。

 

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