「API地経学ブリーフィング」とは、コロナウイルス後の国際政治と世界経済の新たな潮流の兆しをいち早く見つけ、その地政学的かつ地経学的重要性を考察し、日本の国益と戦略にとっての意味合いを精査することを目指し、アジア・パシフィック・イニシアティブ(API)のシニアフェロー・研究員を中心とする執筆陣が、週次で発信するブリーフィング・ノートです(編集長:細谷雄一API研究主幹 兼 慶應義塾大学法学部教授)。
本稿は、東洋経済オンラインにも掲載されています。
https://toyokeizai.net/articles/-/397039
「API地経学ブリーフィング」No.32
2020年12月21日
日本にインド太平洋地域で求められる重い役割 ― 「自由に開かれた」構想の下で指導力を発揮せよ
アジア・パシフィック・イニシアティブ(API)
研究主幹、慶應義塾大学法学部教授 細谷雄一
地政学の激動の時代
2020年の1年間を振り返ると、世界史的な大きな転換となるような地政学的および地経学的な変動にあふれていたことを改めて実感する。何よりも、新型コロナウイルスの感染拡大により世界が混乱し、またアメリカの大統領選挙に世界が翻弄された。
それぞれの諸国が感染拡大をどの程度効果的に抑制するかによって、コロナ後の世界経済、さらにはパワー・バランスが大きく変容することになるだろう。そのような世界情勢における中心舞台が、インド太平洋地域である。この地域において急激に変化するパワー・バランスを適切に認識することが不可欠だ。
それではこのインド太平洋地域における国際関係は、どのような性質のものであろうか。このインド太平洋地域における基本的な構造として最も重要なのが、アメリカと中国との間の地政学的および地経学的な対立である。
アメリカは、イギリス、カナダ、オーストラリア、そしてニュージーランドといった価値を共有するリベラルな民主主義諸国、いわゆる「ファイブ・アイズ」としてのインテリジェンス協力、さらには防衛協力を促進してきた。そして、この地域の安定化と自らの影響力の維持のためにも、日本との同盟関係が最も重要な位置を占めている。
他方で中国は、戦略的な意図からロシアとの協力関係を強化することに加えて、「一帯一路」構想やアジアインフラ投資銀行(AIIB)などを通じて、ユーラシア大陸外縁部において地域秩序形成を主導しようとしている。
そのような中で、日本には戦略的で積極的な外交を展開するという立ち位置が求められる。2016年8月以降、日本外交が掲げてきた「自由で開かれたインド太平洋」構想は、そのような主体的なイニシアティブとして、国際社会から幅広い支持を得ている。おそらく過去1世紀半の日本外交の歴史の中で、これほどまでに日本が提唱した外交構想が国際社会に浸透して、幅広い支持を得たことはなかったのではないか。
過去の1世紀半、ユーラシア大陸の外縁部においては、「大陸国家」と「海洋国家」との地政学的な対立の構図が持続してきた。大陸における覇権的な大国の座は、冷戦時代のソ連から21世紀には中国へと移行しつつある。他方で、19世紀にイギリス帝国の手中にあった海洋覇権は、その後の20世紀半ば以降、現在に至るまでアメリカによって支配されている。
そして、この2つの勢力に挟まる地域が、海と陸が接することになる朝鮮半島、東南アジア、そして中東であった。さらには共産主義諸国と自由主義諸国との間のイデオロギー対立であった。それゆえ、大陸と海洋が交わる半島や海峡などの地域で、冷戦時代は米ソの2つの勢力の摩擦は火の粉を伴う実際の戦闘へとエスカレートした。すなわち、朝鮮戦争と、ベトナム戦争、中東戦争である。
日・ASEAN関係は地域秩序形成のカギ
しかしながら、現在はかつてとは大きく状況が異なっている。ASEANは、域内での利害の対立が見られながらも、インド太平洋地域の将来を左右するような重要な地位を占めているといえる。ASEANは中国にとって今や最大の貿易パートナーとなっており、それとの関係は中国経済の将来を左右する。日本外交にとっても、日・ASEAN関係は、単なるバイラテラルな関係としての重要性にとどまるのではなく、地域秩序を形成するうえでのカギとなるような重要な意義を持っている。
実際に菅義偉政権の日本外交にとっても、ASEANは最重要地域の1つとなり、それゆえ菅首相は首相就任後に最初の外国訪問先としてASEANの議長国となっていたベトナムと、域内の最大の人口と経済力を有するインドネシアとの両国を選んだ。
日本とASEANの関係は、長年の信頼関係に基づいている。2017年のASEAN10カ国における世論調査で、日本と「友好関係にある」と回答した人が89%であり、日本が「信頼できる」と評価した人は91%という高い数値となった。興味深いのは、「今後重要なパートナーとなる国」として日本と回答した人が46%と、中国の40%や、アメリカの38%を上回っていることである。中国の影響力が拡大する中で、むしろバランスをとるためにも将来においてもASEANは日本との関係を強化したいのであろう。
そのような中で、日本では9月16日に史上最も長く首相を務めた安倍晋三がその座を退いて、それまで官房長官であった菅義偉が新たに首相となった。菅首相は基本的に、それまでの安倍政権の対外政策を継承する意向である。他方で、インド太平洋地域の将来を考えるうえで、この秋には極めて重要な2つの新しい動きが見られた。
第1は、10月6日に東京で開催された、日米豪印4カ国の外相会談、いわゆる「クアッド」の開催である。このような対中包囲網とも見られる動きに、中国政府は強硬に反発した。
第2は、その1カ月少し後の11月15日にテレビ会議で合意された、「地域的な包括的経済連携協定(RCEP)」の署名である。前者がアメリカを中心とした民主主義諸国の結束であるのに対して、後者は中国を中心としたこの地域における経済的な現実が求めた帰結である。
それでは、日本はこの2つの枠組みをどのように両立させて、ASEANやオーストラリアといったパートナーと提携していけばいいのか。米中対立という構図の中で、この2つの動きはどのように位置づけたらいいのか。
ここで重要なのは、日本も、オーストラリアも、ASEAN諸国も、米中の全面的な対立、および米中間の全面的なデカップリングを望んではいないということである。これらの諸国にとって、中国との経済的なつながりはあまりにも大きく、それを全面的に破壊することはできない。
日本がアメリカにどうアプローチできるか
したがって、アメリカが対中外交をよりいっそう強硬化していく中で、アメリカの対中政策とは異なるアプローチを日本が提示できるかどうかが重要となっている。日米同盟を重視することと、アメリカとは異なるより包摂的で、この地域でより幅広い支持が得られるようなインド太平洋政策を展開することは、必ずしも二律背反的なものではない。
ここで日本は、2つの重要な姿勢を示す必要がある。第1には、新たにスタートした菅政権においても、これまでの安倍政権同様に「自由で開かれたインド太平洋」構想を促進して、自由で開かれた国際秩序を擁護するうえでの指導力を発揮することである。第2には、ASEANとの信頼関係を基礎として、いかなる国も排除しないような、包摂的なルールに基づく秩序を確立することだ。
そのような中で、バイデン次期大統領は、オーストラリア、日本、韓国という、この地域におけるアメリカにとっての最も重要な同盟国の首脳との電話会談を行った。ところがバイデン次期大統領はあえてそこで、「自由で開かれたインド太平洋」という、すでに定着しつつある用語を用いずに、「インド太平洋地域の平和と安定」という新しい言葉を用いている。これはどういうことであろうか。
新政権が成立すると、前政権からの対外政策の刷新を強く求める傾向がしばしば見られる。そのような中で、同盟国である日本は、アメリカにおける政権交代による振り幅に対して過度に振り回されるのは得策ではない。バイデン新政権に対しては、丁寧に日本の基本的な外交方針を説明することが求められる。
日本政府がこれまで促進してきた「自由で開かれたインド太平洋」構想は、すでにフランス、ドイツ、イギリスのような欧州諸国や、ASEAN諸国、そしてオーストラリアやカナダ、インドといった多くの国々からの支持や同意を得て、国際社会で確立しつつある。
バイデン次期大統領の政権移行チームは、おそらくはそのような日本政府のより包摂的な「自由で開かれたインド太平洋」構想の意図を十分に認識せずに、この日本の外交構想を、トランプ政権の強硬な対中包囲網の形成のアプローチと単純に同一視したのではないか。そのような誤解を前提に、トランプ政権の外交政策を刷新したいという欲求が、バイデン次期大統領の一部の外交ブレーンが「自由で開かれたインド太平洋」という言葉を敬遠する理由になっていると考えられる。
日本に求められるバイデン新政権への働きかけ
日本政府に求められるのは、そのようなバイデン次期大統領の政権移行チームの誤解を解消して、政策を過度に刷新しようとするような新政権の指向性を抑制するように働きかけることだ。これまでも日本政府は、アメリカとの緊密な信頼関係を基礎として、対中認識を調和させるための多大な努力を行ってきた。
日本が発案し、展開し、国際社会での幅広い支持を得てきたこの構想を、アメリカの次期政権に過剰に忖度をして捨て去ることは賢明とはいえない。また、それがトランプ政権によって創られたものだという認識をただして、日本外交がそれを通じて目指してきたことを正確に伝えなければならない。
いわば、「連結性」や「包摂性」を基礎とした「自由で開かれたインド太平洋」構想は、米中衝突を回避するための重要な基礎となりうる。そのように、日米間のインド太平洋戦略をめぐる認識の齟齬を調整して、相互の理解を深めることこそが、「菅=バイデン時代」の新しい日米同盟の基礎として不可欠である。
(おことわり)
API地経学ブリーフィングに記された内容や意見は、著者の個人的見解であり、一般財団法人アジア・パシフィック・イニシアティブ(API)やAPI地経学研究所等、著者の所属する組織の公式見解を必ずしも示すものではないことをご留意ください。
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