ウクライナ戦争解決に向けての人権規範の重要性(地経学ブリーフィング・松村五郎)



地経学ブリーフィング No.214
2024年7月24日

ウクライナ戦争解決に向けての人権規範の重要性

元陸上自衛隊東北方面総監 松村 五郎

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7月9~11日、NATO(北大西洋条約機構)首脳会議がワシントンで開催され、ウクライナに対する更なる支援が表明された。しかし、戦場においては引き続き一進一退が続いており、今後の展望は見えてこない。そのような中で、日本を含めウクライナを支援する側は、何を目指して戦争を解決に導いていくのか、再確認が求められていると言えよう。政治的目的を明確にしなくては、軍事作戦は迷走する。

 

大きな流れの中でウクライナ戦争が持つ意味

6月中旬スイスにおいて開催されたウクライナ平和サミットで発表された共同コミュニケは、武力による威嚇や武力行使への反対と、国家主権と領土保全の原則及び平和的手段による紛争解決へのコミットメントを再確認した上で、次の3項目の重要性に関し共通の立場を取ることを掲げた。それは、①原発の安全確保と核兵器による威嚇への反対、②世界の食糧安全保障の確保、③捕虜及び子供たちを含む拘束者のウクライナへの帰還の3つである。

このように共同コミュニケの内容を同意し易い項目だけにとどめ、具体的な停戦の条件に踏み込まなかったのは、中国も含めたより多くの国々の参加及び同意を得たかったという事情もあるだろう。しかし、同コミュニケがロシアに対してこの3項目を突き付けたということが、この戦争の性格を物語っていると考えることもできる。それは、この3項目がいずれも、ウクライナの領土回復にとどまらず、広く世界の人々の人権に関わる問題だという点に着目すると見えてくる。

そもそもロシアのプーチン大統領が、2022年2月にウクライナに侵攻した動機は何だったのだろうか。侵攻の半年前に発表された「ロシア人とウクライナ人の歴史的一体性について」という論考の中で彼は、2014年のウクライナのマイダン革命について「西側諸国はウクライナの国内問題に直接介入してクーデターを支援した」との認識を示している。それまでもプーチン大統領は、「カラー革命」や「アラブの春」などのいわゆる民主化の波を、西側諸国による企みであるとしてきた。

プーチン大統領は、民主的な社会に向けた動きを自らの体制にとっての脅威だと捉えている。そのような考え方からすれば、彼がロシアと歴史的に一体であると主張するウクライナにおいて、民主的な社会が繁栄することになれば、その波はロシア国内に及びかねず、現体制にとって大きな脅威だと映ったとしても不思議ではない。これは、中国の習近平国家主席が、2019年の香港での民主を求める動きに対して、断固とした弾圧の動きに出たことと軌を一にするものだと言えよう。このような大きな流れの中で見れば、今回のウクライナ戦争は、民主を求める動きが、これを弾圧している国に浸透していく中での軋みが生んだ戦争だと見ることもできる。

 

「民主主義対権威主義の戦い」なのか?

米国のバイデン大統領は、このような大きな流れを「民主主義対権威主義の戦い」だと表現した。しかし、政治体制としての「民主主義」は、全構成員の人権が対等に保証される真に民主的な社会を実現するための道具だとも言える。選挙制度を基準に「民主主義」の国々を挙げたとしても、その内実には大きな差があり、一律の評価は難しい。歴史の流れの中でむしろ重要なのは、それぞれの社会において、すべての構成員がより対等に扱われ、一人ひとりの人権がより広く保証されることに向け、どれだけ前進しているかであろう。10年単位で「民主主義」の後退が指摘される中でも、100年単位の流れを見れば、大勢として世界がその方向に向かって着実に動いていることは間違いない。このような大きな流れを感じるからこそ、プーチン大統領や習国家主席は、大きな恐怖を感じているのではないだろうか。

ウクライナ戦争の実態を見ても、プーチン大統領の人権感覚は、民主的な国に住む人間が感じるものとは大きく乖離している。ウクライナ市民に対する虐殺行為はもとより、占領地域での住民の扱いや子供たちなどの連れ去り、人命を軽視したロシア兵の使い方、ロシア国内における反対勢力の弾圧など、その例には枚挙に暇がない。そしてこの乖離は、ロシアが苦境に陥る度に益々拡大している。

このようなことを考えた時、ウクライナ戦争におけるロシアの勝利が意味するものは、国家の主権と領土の一体性が力によって覆されるという意味で国際秩序が揺らぐことに留まらない。それは、人類の人権拡大という大きな流れが、当面逆行する局面が世界に訪れるという、看過できない歴史的後退の始まりとなってしまうのではないだろうか。

ウクライナのゼレンスキー大統領は、早い時期からこのことを訴えていた。2022年12月の米議会における演説で、彼はこう述べている。「この戦いは、ウクライナ人の生命や自由、安全のためだけでも、ロシアが征服を企てているほかの国々を守るためだけでもありません。私たちの子どもや孫、そしてその子孫が、これからどんな世界に生きていくかを決める戦いなのです」。これは単に支援を得るためのレトリックではなく、ウクライナ国民の実感を表したものであろう。

 

今こそ再確認されるべき人権擁護の方向性

現代においてほとんどの国が賛同している国連憲章の第1条は、国連の目的として「人民の同権及び自決の原則の尊重に基礎をおく諸国間の友好関係を発展させること」とともに、「人種、性、言語又は宗教による差別なくすべての者のために人権及び基本的自由を尊重するように助長奨励すること」を掲げている。国家間の主権平等とならんで、人権の尊重が国連を支える理念の二本柱なのである。

移民問題や経済格差などを背景に、近年では、民主主義が成熟したと考えられてきた諸国においても、人権状況改善への努力を顧みることなく、ただ自国の国力増大を優先すべきだとの国家主義的とも言える主張が勢いを増しつつある。また政治体制としては民主主義国家であるとされているイスラエルが、ガザ地区において一般住民の人権を脅かす行為を続けていることも、世界の人々に大きな憂慮を抱かせる事態となっている。今こそ世界的な人権状況改善に向けたあり方について、各国が真剣に考える時期が来ている。ウクライナを支援する国々は、ウクライナの勝利によって何を達成しようとしているのか、改めて確認する必要があろう。

もちろん人権については世界に様々な考え方があり、ロシアや中国も建前としては人権は擁護されるべきものだとしている。中国の主張に時折見られるように、まずは生存権確保のための経済発展が優先されるべきであり、そのためには当面政治的自由を制限することが必要だとの論理が用いられることもある。そのような主張を持つ政権に対して、他国が表立って表現や結社の自由の保証を求めて強硬な態度に出るのでは、かえって武力紛争を誘発する恐れがあるのも事実であろう。

しかし、民主的な社会に生きる国民からすれば、基本的人権を擁護する動きが世界に広まっていくという流れを、国家の権力によって暴力的に弾圧し、人命までも奪うという状態は決して看過できるものではない。内政不干渉の原則があるといえども、人権が大きく損なわれるような事態において何らかの国際的な関与が必要だという規範は、広く受け入れられるようになってきている。もちろん武力紛争の激化を回避する配慮は常に必要であるが、人権がより守られるよう着実に前に進んでいくことが重要であろう。

そのためには、人権を錦の御旗として自国に有利なようにただ利用するという態度は排すべきであるし、また人権全体を一括りの価値観として力で強要することもうまく機能しないだろう。それよりも、個別に生起する国際問題を解決していく際に、その中で生起している人権問題を明確にして、できるだけ多くの国が認識を共有し、そこに焦点を当てて一つずつ具体的に解決していくというアプローチが有効ではないだろうか。

このような観点からウクライナ戦争の終結を考える場合、ロシア国内において人権を擁護する勢力が力を増して民主的な政権を打ち立て、ウクライナ領土から撤退することが最も望ましいシナリオではある。しかし現下のロシア国内における状況を考えた時、その可能性は非常に低いと言わざるを得ない。

現実的には、ウクライナ側が軍事的に最大限領土回復の努力をした上で、ロシアが受け入れられる妥協点を見出し、残った争点は政治的解決に委ねるという形で停戦に持ち込むしかないのかもしれない。しかしその場合であっても、領土や体制について議論する際に、そこに住む「人」の問題を忘れてはならないだろう。ロシアに連れ去られた人々の帰還を含め、ウクライナに暮らす人々の安全を含む人権が確実に守られることは最低限の条件である。そしてやむを得ず、当面はある地域がロシアの統治下に残ることを余儀なくされたとしても、そこに暮らす人々の人権が、できる限り保証されるような解決に持ち込まなくてはならない。

そのためには、日本も含めウクライナを支援する国々が、ぶれることなく安定した支援を継続し、ロシアに圧力をかけ続けることが重要であろう。この戦争の帰趨は、ウクライナの人々の人権を守ることにとどまらず、流れを逆行させることなく世界の人権状況を改善し続けていく上で、重要な歴史上の分岐点となる。その意味でも、ロシアの一方的勝利は決して許してはならないのである。

 

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地経学ブリーフィングとは

「地経学ブリーフィング」とは、コロナウイルス後の国際政治と世界経済の新たな潮流の兆しをいち早く見つけ、その地政学的かつ地経学的重要性を考察し、日本の国益と戦略にとっての意味合いを精査することを目指し、アジア・パシフィック・イニシアティブ(API)のシニアフェロー・研究員を中心とする執筆陣が、週次で発信するブリーフィング・ノートです(編集長:鈴木一人
地経学研究所長、東京大学公共政策大学院教授)。

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