日本に「地経学」の戦略がますます求められる理由(細谷雄一)


「地経学ブリーフィング」とは、コロナウイルス後の国際政治と世界経済の新たな潮流の兆しをいち早く見つけ、その地政学的かつ地経学的重要性を考察し、日本の国益と戦略にとっての意味合いを精査することを目指し、アジア・パシフィック・イニシアティブ(API)のシニアフェロー・研究員を中心とする執筆陣が、週次で発信するブリーフィング・ノートです(編集長:鈴木一人 地経学研究所長、東京大学公共政策大学院教授)。

本稿は、東洋経済オンラインにも掲載されています。

https://toyokeizai.net/articles/-/607809

「地経学ブリーフィング」No.115

(画像提供:Getty Images)

2022年8月1日

日本に「地経学」の戦略がますます求められる理由 - 2013年策定の国家安全保障戦略と今は何が違うか

理事・アジア・パシフィック・イニシアティブ研究主幹
慶應義塾大学法学部教授、ケンブリッジ大学ダウニング・カレッジ訪問研究員 細谷雄一

 
 
 
 
 

経済安全保障が埋め込まれた国家安全保障戦略へ

現在、岸田文雄政権下で、国家安全保障戦略の改定のための作業が行われている。日本で最初に国家安全保障戦略が策定されたのが、2013年12月の安倍晋三政権下でのことであり、その際に岸田氏は外相として策定作業にも携わっていた。

この国家安全保障戦略では、「おおむね10年程度の期間を念頭に置いたもの」と書かれており、すでに9年が経過する一方で、この間にあまりにも巨大な国際情勢の変化が見られた。現在進行中の、ロシアによるウクライナ侵攻はその1つである。

今年の1月から専門家からの意見聴取を始め、本格的な策定作業に入った。ただし、前回とは異なり今回は有識者会議方式をとらず、あくまでも国家安全保障局を中心として、防衛省と外務省の官僚を中心に起草作業を行っている様子である。おそらくは夏から秋にかけて、本格的に政府内で文書が作成されていくのだろう。

ここで1つの焦点となっているのが、この文書の中で経済安全保障がどのように位置づけられるかである。前回の2013年の文書の中には、この言葉は含まれていなかった。近年の米中対立と、それに伴うデカップリング、さらには中国による経済関係を用いて相手国に圧力をかける手法などが、深刻な懸念となっている。

岸田政権でこのように新しい国家安全保障戦略策定に向けた準備作業が本格化し、さらにはその過程で「経済安全保障」が注目されている。これが、2013年との最も大きな違いであろう。
 

戦後外交におけるエコノミックステイトクラフト

経済安全保障、あるいは地経学についての日本政府の取り組みは、必ずしも岸田政権になって始まったというわけではない。戦後日本は平和国家としての歩みをスタートして、また憲法9条で「国権の発動たる戦争と、武力による威嚇又は武力の行使は、国際紛争を解決する手段としては、永久にこれを放棄する」とうたっている。

国際社会におけるほかの主要国とは異なり、日本は憲法上の制約からも、戦争の反省からも、戦後これまで非軍事的手段を中心的に用いて国際社会で自らの影響力を広げる努力を続けてきた。いわば、経済を中心に対外政策を展開する「エコノミックステイトクラフト」が、戦後日本外交のアイデンティティーの中核に位置づけられたといってもよいであろう。

五百旗頭真神戸大学名誉教授は編著『戦後日本外交史』の中で、「相互依存状況が進んだ国際関係の新局面をも視野に入れて、軽軍備、安全保障の対米依存、経済と通商の重視という吉田路線に帰着した」と述べている。そして、それが「戦後史の基本形をなす点で注目に値する」と書いている。戦後日本がそのような外交路線を邁進した帰結が、「経済大国」としての日本のアイデンティティーであった。

また、冷戦という国際環境が、軍事力の行使をよりいっそう難しいものとした。フランスの思想家であるレイモン・アロンは、冷戦のことを「平和は不可能だが、戦争もありそうにない状況」と定義した。

米ソ間の核戦争が人類の破滅であると考え、西側諸国も東側諸国も、軍事力の行使が「第3次世界大戦」に至らぬよう慎重な行動を試みていた。それゆえ、主要国は非軍事的手段を用いた戦略を活用する必要が増していき、たとえば第3世界に対する経済援助などの手段を通じて自らの影響力拡大を目指すようになる。

実際に日本は、ODA(政府開発援助)を通じて戦略的に東南アジアやアフリカの諸国との関係を強化して、さらに輸出入銀行やその後継の国際協力銀行が戦略的なインフラ輸出を牽引してきた。また近年では、「ODA大綱」を「開発協力大綱」と改称し、経済協力と安全保障とを結びつけて日本の対外経済援助を戦略的に進める傾向が強まっている。

冷戦の終結は、「第3次世界大戦」の恐怖から人々を解放し、その結果として大国による軍事力行使のハードルが下がる結果にもつながった。だが、日本は冷戦後も「吉田路線」としての軽装備を前提とした外交路線を継続し、憲法9条を前提に非軍事的手段で自らの安全と国益を護る努力を続けてきた。ただし、そのような従来の外交路線が現在、行き詰まりを迎えている。それはどういう意味であろうか。
 

「デグローバリゼーション」と「デカップリング」の時代へ

冷戦後の世界は、分断が終結することによって、世界が1つとなり、グローバリゼーションが進展することを期待した。民主主義が世界中に広がり、資本主義の論理が地球を覆い尽くし、グローバルな1つの市場が成立することが想定されていたのだ。

そのような認識に基づき、日本を中心とする先進民主主義諸国は中国をWTO(世界貿易機関)へと誘い、またロシアをBRICsの一角を占める将来有望な市場として、エネルギーを中心に経済的なつながりを深めていった。

そのような認識が大きく崩れていく。その転機となったのが、2010年9月の尖閣漁船衝突事故をめぐって中国がレアアースの天然資源を日本に圧力をかけるための道具として利用したことであり、また2014年3年にロシアが軍事的威嚇をともなってウクライナ領であったクリミアを自国領として併合したことである。

これらのことから、次第に中国やロシアとの経済協力の困難や問題が指摘されるようになった。また、2018年10月のマイク・ペンス副大統領の演説や、2019年7月のマイク・ポンペオ国務長官の演説に見られるように、トランプ政権下のアメリカは中国の権威主義体制を批判して、従来のような経済相互依存関係を見直す必要を説くようになった。いわゆる「デカップリング」である。

米中の対立と分断が進行することにより、日本もまた従来の中国の緊密なサプライチェーンの関係を部分的に見直して、それを再編する必要に迫られている。

世界は統合の力学が働く「グローバリゼーション」の時代から、部分的に分裂や分断が進む「デグローバリゼーション」の時代へと移行したという指摘も見られるようになった。

冷戦時代のように、全面的に米中や日中が「デカップリング」を進めることは不可能であるが、民主主義体制と権威主義体制の対立がしばしば論じられる中で、従来と同じような楽観的な日中経済関係の未来を見通すことは難しくなってきた。だとすれば、これからの時代において、日本は多様な要素を総合的に判断して国家安全保障戦略を策定せねばならないであろう。
 

日本の地経学戦略を確立せよ

これまで論じてきたような古くて新しい課題に対応していくうえで、「地経学」という用語が近年は頻繁に用いられるようになってきた。従来の「地政学」という用語に対して、よりいっそう経済的な手段、経済的なパワーが重要になっているのである。

そして、21世紀に入ってからの新興国の台頭に伴うパワーバランスの変化や、経済と安全保障がよりいっそう緊密に結びつくことによる国際関係の質的な変化に対応する新しい外交戦略が求められるようになった。

安倍晋三政権以来の日本は「インド太平洋」という地理的な概念を重視するとともに、「開かれ安定した海洋」という海洋国家としてのアイデンティティーからもシーコミュニケーション(海路)を安全に航行することの重要性を強調するようになってきた。

その1つの帰結が、2016年8月にケニアのナイロビで安倍晋三首相が演説の中で触れた「自由で開かれたインド太平洋」構想である。これは、太平洋とインド洋という2つの海洋を視野に入れて、そこにおいてルールに基づいた国際秩序を、価値を共有する諸国とともに日本が主導して構築していくことを目指す戦略である。
 

岸田政権が採る経済安全保障戦略

岸田政権は、安倍政権が推進した「自由で開かれたインド太平洋」構想を継承しながら、さらに安倍政権時には十分には進展できなかった経済安全保障をより重視して、経済安全保障推進法を導入した。いわば、インド太平洋地域という地理を舞台に、日本が中核的なアクターとして、日米同盟やいわゆるクアッドという日米豪印の枠組みを発展させて、ルールに基づく国際秩序を確立していく戦略である。

その際に、中国が展開していることが懸念されている影響力工作や、サイバー攻撃、知的所有権の侵害といった問題に対して、より実効的に対応する必要に迫られている。

南シナ海や東シナ海で軍事行動を活発化させて、領土紛争ともなっているような島嶼においても軍事基地化を進める中国に対する国際社会の懸念が募る一方で、日本にとっても、韓国にとっても、ASEANにとっても中国は最大の貿易相手国となっている。さらにはRCEP(地域的な包括的経済連携協定)を締結したことで、その傾向は継続、拡大していくだろう。

安全保障上の考慮と、経済的利益上の考慮と、それらを総合する地経学戦略を日本はこれから真剣に考慮していく必要がある。それは、これまでに経験したことがない、脅威が不明瞭で、対処が困難な、よりいっそう難しい時代に入ったことを意味するのだ。
 

(おことわり)地経学ブリーフィングに記された内容や意見は、著者の個人的見解であり、公益財団法人国際文化会館及び地経学研究所(IOG)等、著者の所属する組織の公式見解を必ずしも示すものではないことをご留意ください。
 

最新の論考や研究活動について配信しています