安倍元首相が日本を地経学の中に位置づけた意味(鈴木一人)


「地経学ブリーフィング」とは、コロナウイルス後の国際政治と世界経済の新たな潮流の兆しをいち早く見つけ、その地政学的かつ地経学的重要性を考察し、日本の国益と戦略にとっての意味合いを精査することを目指し、アジア・パシフィック・イニシアティブ(API)のシニアフェロー・研究員を中心とする執筆陣が、週次で発信するブリーフィング・ノートです(編集長:鈴木一人 地経学研究所長、東京大学公共政策大学院教授)。

本稿は、東洋経済オンラインにも掲載されています。

https://toyokeizai.net/articles/-/604278

「地経学ブリーフィング」No.113

(画像提供:毎日新聞社/アフロ)

2022年7月18日

安倍元首相が日本を地経学の中に位置づけた意味 - QUADやCPTPPの創設により何がどう変わったか

地経学研究所長
東京大学公共政策大学院教授 鈴木一人

 
 
 
 
 

これまで「ポストコロナのメガ地経学ーパワー・バランス/世界秩序/文明」として、アジア・パシフィック・イニシアティブ(API)から発信してきた本連載だが、7月1日APIと国際文化会館(IHJ)が統合したことで、新たに設置された「地経学研究所」が連載を引き継ぐこととなった。タイトルを「地経学の時代-地政学と経済の融合」として、新たな連載を始めたいと思う。

ところが、地経学研究所が新たに船出した1週間後、安倍晋三元首相が凶弾に倒れ、帰らぬ人となった。安倍元首相は、近代日本の総理大臣の中では最長の在任期間を務め、冷戦後の世界が変化していく中で、その変化に適応し、日本の政治経済を、そうした変化に合わせて改革していった政治家であった。

彼の死後、世界各国の首脳から追悼のメッセージが届けられ、多くのメディアで追悼記事が掲載されたが、その多くで、安倍元首相が日本の顔として外交の舞台で活躍し、日本を地政学の中に位置づけなおしたことを高く評価した。しかしながら、より重要な点として、安倍元首相は単に日本を「地政学」の中に位置づけなおしただけでなく、日本を「地経学」の中に位置づけた点である。
 

1.「地経学」とは何か

地経学(Geoeconomics)は耳慣れない言葉ではあるが、冷戦が終わった1990年代には使われるようになった用語であり、その歴史は意外に長い。冷戦期には「東側陣営」として社会主義的な互助的経済関係を作っていた国々が市場経済に移行し、自由貿易の枠組みに編入されていくことで、冷戦期のような地政学的な対立は後景に退き、経済関係が前面に出る国際的な力の均衡が生まれたとして、地経学という言葉が使われるようになった。

こうした経緯で生まれ、使われるようになった地経学を定義するとすれば、「国家が、地政学的な目的のために、経済を手段として使うこと」(船橋洋一『地経学とは何か』文春新書、2020年)ということになるだろう。

ここには国家の経済的な活動が地理的条件、すなわち地下資源の有無や良港に恵まれるといった交易条件などに規定された、国家のもつ経済的なパワーを、国家間関係における力学の主要な要件として見る、ということが含まれる。

国家は、地理的に規定された経済的パワーを、その国家が目指す目的――例えば他国の行動を抑止する――を実現するために活用する。地下資源が限られている国家は、自由貿易を確立して他国の資源にアクセスできるようにするという選択もあれば、援助などの経済的なパワーを用いて他国の資源を自国に独占的に使わせるといった選択も取りうる。

地経学における国家は、その経済力を他国に働きかけて自国の望むような行動をとらせるというパワーを行使しうるが、同時に他国からの働きかけを回避し、他国に影響されずに行動できるような自律性を確保するために経済力を使う(ないしは経済力を強化する)。

では、安倍元首相は、どのように「地経学」的なパワーを使ったのだろうか。

 

2.QUADの創設

あまり多く語られることはないが、安倍元首相はQUADの生みの親である。QUADと呼ばれる、日米豪印の4カ国の協力体制は、2004年のスマトラ島沖地震を受けて、東南アジア諸国における安定と復興を目指し、日米豪印の4カ国が協力して対処したことが背景にある。

この活動は極めて迅速な対応を見せただけでなく、4カ国がそれぞれ共通した復興に向けてのビジョンを持ち、価値観を共有していることが実感できるものであった。このスマトラ島沖地震への対処の経験を踏まえ、2006年に総理に就任した安倍元首相は、価値観を共有する4カ国によって恒常的な枠組みを作り、その枠組みがインド太平洋地域における秩序作りを主導する役割を担うことを提唱した。

安倍元首相が政権に返り咲いた2012年には、「自由で開かれたインド太平洋(FOIP)」という構想を提唱し、その中心にQUADを据えるというアイディアを復活させた。

QUADはFOIPを実現するための海洋安全保障の枠組みというだけではない。安倍元首相が首相を辞任した後ではあるが、2021年のQUAD首脳会議においては、サプライチェーンの強靭化や先端技術の開発などに関しても議論し、作業部会を設置することとなった。

この首脳会談では、半導体、電気自動車用電池、医薬品、レアアースなどの分野において、QUADの中でサプライチェーンを強化するための作業部会を設置し、各国の強みと弱みを検討することとなった。

中でもQUADが重要な役割を果たしたのは医薬品部門である。2021年はまさにパンデミックの最中であり、世界的にワクチンが不足している状況であった。いち早くワクチン開発に成功した中国は、ワクチンを開発することができない途上国に対して、いわゆる「ワクチン外交」を展開した。

中でもパラグアイは台湾と国交を持つ国であったため、パラグアイに対して、ワクチンを供給する代わりに台湾と断交することを求めた。これを見たアメリカは、インドに協力を依頼し、インドが製造しているアストラゼネカ社製のワクチンをパラグアイに提供することで、中国の言いなりになることを避け、台湾との国交を維持することができた。

このように、QUADは地政学だけでなく、地経学の分野でも協力関係を築くためのプラットフォームとなっており、QUADは広い意味での国際秩序を安定させるための枠組みとして位置づけられている。QUADがこうした地経学分野における協力の枠組みとなる流れを作ったのはQUADを自由で開かれたインド太平洋という構想に結び付け、軍事のみならず経済においても開かれた秩序を創り出そうとした安倍元首相であった。

 

3.CPTPPの創設

安倍元首相の地経学的な実績でより重要なのはCPTPP(環太平洋パートナーシップに関する包括的及び先進的な協定)の創設であろう。CPTPPは周知のとおり、TPPからアメリカが離脱したことによって崩壊に追い込まれるところを、安倍元首相がリーダーシップを発揮し、アメリカを除くTPP参加国すべて(11カ国)を取りまとめて、高い水準の関税引き下げ率と高い基準での国際ルール作りの仕組みを維持したまま、環太平洋地域における自由貿易体制を守った。

日本とアメリカが主導したTPPは環太平洋地域における友好国を軸に交渉が進められたことから、中国を排除した貿易圏を創り出すことを目指したものとみられていた。しかし、その主たる目的は中国との対抗関係というよりは、2000年から始まったWTO(世界貿易機関)のドーハラウンドが一向に進展せず、WTOが国際経済秩序を形成することができなくなっている中で、高い基準の自由貿易圏を環太平洋地域に作り出すことで、一層の自由貿易を進めることに主眼があった。

TPPの交渉に中国を入れなかったのは、中国の求める基準に合わせれば、質の高い自由貿易協定を結ぶことは難しくなり、それは日本が目指す国際経済秩序を創り出すことにならないからである。実際、中国はCPTPPの成功を見て加盟申請に踏みきり、日本が中心となってまとめた質の高い自由貿易協定に参加することを希望している。

地経学的に見れば、日本は中国の加盟に拒否権を持つことになり(新規加盟を認めるのは既加盟国の全会一致が必要)、中国の貿易慣行や国内改革をCPTPP水準に合致させる立場を手に入れた。安倍元首相がアメリカの離脱にもかかわらず、CPTPPをまとめ上げたことで、中国に対する強い影響力を持つにまで至ったのである。

日本にとって自由貿易を維持することは、資源が乏しく、食料も輸入に依存する中、国家の存亡は自由貿易を拡大できるかどうかにかかっている。アメリカの離脱で国際経済秩序が「自国ファースト」に向かう中、自由貿易体制を守っただけでなく、中国の国内体制を変革させる力を手に入れた。まさに、地経学的な逆転劇であり、それを実現した安倍元首相の外交は、日本外交の金字塔と言ってもいいだろう。

 

4.安倍元首相のレガシー

安倍元首相は首相在任期間中、さまざまな実績を残したが、多くの注目が集まるのは平和安保法制や憲法改正をめぐる問題であり、地経学的な観点からの評価はあまり多くない。しかし、ここで述べたようにQUADを通じた経済安全保障の可能性を開き、CPTPPの創設によって国際経済秩序の形成を目指したことなど、そのレガシーは大きなものがある。

これは安倍元首相が、台頭する中国の経済力の前に日本の存在感が薄れる一方、日本経済は一層中国に依存していくという状況を前にして、いかなる戦略を取るべきかを考え抜いた結果であった。その戦略を引き継ぎ、発展させていくことこそ、残された我々に課せられた課題であろう。

 

(おことわり)地経学ブリーフィングに記された内容や意見は、著者の個人的見解であり、公益財団法人国際文化会館及び地経学研究所(IOG)等、著者の所属する組織の公式見解を必ずしも示すものではないことをご留意ください。
 

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